昔の旅日記
十和田湖〜乙女の像〜
十和田湖が見える。十和田湖は、30年以上前に来たことがあるが、覚えていない。 |
ここ休屋は青森秋田の境であるそうな。また陸奥陸中の境にもなっておる。宿の前の小さなサラサラ流れが国境なので、流れの向う側の家は秋田県であるという。流れの側には葉柳が一本立って、秋田県の人が手桶を洗うておる。 |
大正14年(1925年)9月26日、与謝野寛・晶子夫妻は休屋から十和田湖へ。27日、夫妻は平泉へ。 |
昭和14年(1939年)8月2T日、星野立子は十和田湖を船で休屋に行く。 |
同二十一日。十和田湖を遊船で休屋に。湖畔の太陽館 に寄りて休む。中食は十和田湖の鱒の照焼が今も記憶に 残つてゐる。あんなに迄晴れ渡つてゐたお天気が、突然 の大風に雷をともなつて土を抜き通すやうな夕立がやつ て来た。七かまどの枝が葉をいつぱいつけたまゝ雨に打 ち落される有様は恐ろしい程であつた。そんな大夕立が ぱたつと間もなくやんだ。と、どこからとなく又湖畔に 裸の子供たちが集つて来て水浴をはじめる。 船著かぬ間を桟橋に泳ぐなり |
昭和28年(1953年)、高野素十は十和田湖から蔦温泉を訪れている。 |
十和田湖、蔦温泉 水芭蕉白き一瓣ひろく垂れ 一叺(かます)づつ負ふ女蕨採り 蔦の温泉に蕨採り女等小酒盛り 折りくれし霧の蕨のつめたさよ
『芹』 |
台座に青森県知事津島文治が十和田国立公園15周年を記念して塑像の「制作を高村光太郎氏に委嘱した」と書かれている。 昭和27年(1952年)秋、委嘱を受けた光太郎は、それまで7年半を過ごした花巻から記念像制作のため上京する。昭和28年(1953年)6月、原型完成。10月、十和田湖畔の除幕式典に参加した。昭和31年(1956)4月2日、73歳で亡くなる。 津島文治は太宰治(本名津島修治)の実兄。太宰治は昭和23年(1948年)6月13日、39歳で玉川上水に入水している。 乙女の像のわきに光太郎の「十和田湖畔の裸像に告る」という詩が刻まれている。 |
昭和41年(1966年)10月、水原秋桜子は津軽、十和田に回遊。 |
休屋に泊る 四句 炭火佳し豊の稔りのきりたんぽ 紅葉飛ぶ風や小鳥もちりぢりに 雁渡し波吹き寄するなゝかまど うかぶ鴛鴦(おし)色うしなへりなゝかまど
『殉教』 |
昭和43年(1968年)12月、山口誓子は乙女の像を見ている。 |
しかし、智恵子の病気は快方に向はず、東京に帰つて来た。そして昭和十三年に病院で死んだ。光太郎が昭和二十七年、十和田湖に記念像を建てることになつたとき、光太郎は智恵子の裸像を作らうと思ひ立つた。光太郎は八年間彫刻から離れてゐて、七十歳になつてゐた。そのブロンズの二人の裸婦像は翌年十和田湖の休屋御前浜に建てられた。 私も湖畔のその裸婦像を見たことがある。裸婦はずんぐりしてゐた。上半身が長く、脚が短かかつた。私にはその裸婦像が智恵子だと思はれず、東北地方の農村の乙女を二人、田圃から連れて来て立たしたやうに思はれた。
昭和45年2月「九十九里浜行」 |