「壺の碑」は七戸町の千曳神社の地中に埋められて祀られているという伝承が残されていたそうだ。 |
鴎の蕪島、白鳥の小湊のみを以てしても、陸奥の海岸は奇抜なるが、試に地図を展べて見よ。陸奥の国を譬ふれば、右手を頭よりも上に伸ばし、左手を頭の上に曲げたるが如し。頭は夏泊半島也。右肩は青森市内也。右手は津軽半島也。右手と頭との間は陸奥湾也。右手の端より頭の先までは、『陸奥の奥ゆかしくぞおもほゆる壷の石碑外の浜風』と西行法師の歌ひたる外ケ浜也。壷の石碑のありたりし処は、矢張陸奥にて、七戸在の壷村なりと聞く。
「陸奥の海岸線」(浅虫温泉)
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昭和24年(1949年)6月21日、「日本中央の碑」は青森県東北町(当時甲地村)の石文集落近くの赤川上流の湿地帯で千曳在住の川村種吉により発見された。 |
阿仏尼(群書類従) | 頼朝(新古今和歌集)
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平成元年(1989年)6月3日、金子兜太はNHKの「推理紀行−芭蕉・青森を行く」で「日本中央の碑」を見た。 平成7年(1995年)、「日本中央の碑保存館」開館。 平成7年(1995年)8月30日、金子兜太「日本中央句碑」序幕。 |
日本中央 |
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とあり |
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大手鞠 |
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小手鞠 |
顕昭(夫木和歌抄)
| 西行(夫木和歌抄) |
「日本中央」とて |
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みちのくに |
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碑を残す |
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壺の石ぶみ |
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何かを知らず |
よしや今 |
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石文なくも |
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つぼの里 |
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ますらたけをの |
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忍ばるゝ哉 |
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大正十四年五月二十五日 |
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桂月 |
七戸に下りたるは、円収師の教を受けたき |
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ことあればなり。今一つ壺の石碑の跡を探り |
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たければなり。七戸より青森さして、一里半 |
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ばかり北すれば、坪といふ村あり。今や石碑 |
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は跡方もなけれども、昔有名なりし坪の石碑 |
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ありたる處は、ここなりと言ひ傳ふ。 |
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大正十四年 春 堅雪の八幡岳 |
平成14年(2002年)10月4日、大町桂月来遊77周年、及び「日本中央の碑」歴史公園開園7周年を記念して建立された。 |