城ヶ倉 |
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燃ゆる紅葉の |
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山脈に |
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雲行き交ひて |
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空晴れ渡る |
嫦娥くら(城ヶ倉) 天候悪きが為に大岳に上る能はず。時間を持たぬ未醒画伯の神代氏と共に失望して山を下るを、途中まで送り別れて嫦娥渓を見物す。危険なればとて、勇者のみをえらび、郡場博士導をなし、鹿内氏輜重を司どる。崖高く、谷深く、緑葉殆ど天を掩ひつくさんとす。 谷青葉の合ひ兼ねる空や雲走る 聞きしにもまして、危険なり。急湍を幾度も徒渉せざるべからず。巌より巌へ飛ばざるべからず。懸崖を蝸付(かふ)して過ぎざるべからず。郡場博士は一向平気にて、好景色にあふごとに撮影しては一行を導き、矯捷(きょうしょう)にして、余裕綽々たり。この渓の特色ともいふべきは、安山岩の柱状をなせるにあり。左右の懸崖の下、渓に延びて犬牙錯綜せる所、石柱列をなし、幾重にもかさなりて、造化の奇を弄すること茲に到れるかとおどろかるゝばかりなり。石柱くづれて、かさなり合へるところより、鹿内氏四寸角の七尺ばかりなる石柱を取り出して肩にす。如何に力強ければとて、宿までは持ちゆかれまじと思ふ程に、奔湍(ほんたん)の上に至り、巌より巌にかけて、自ら渡り、予をも渡らしめて、微笑す。すつるにすてかねしに、はばからずも利用することを得たるなり。 今一つこの渓の呼び物は獅子巌なり。弧巌渓中に立ちて、如何にもその名に負かず。灌木自らたてがみとなりて、渓風になびき、渓声代はつて獅子吼をなす。嫦娥渓の区域、凡そ一里、沼多く、お花畑多き八甲田も、この渓に気骨を発揮して、人を威圧するなり。 大正十一年 花の八甲田山 大町桂月 |
嫦娥くらの景は |
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六万石にあり |
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入江のふち磁石のふち |
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大正十一年八月十八日桂月 |
大町桂月文学碑 碑陰 大町桂月、明治2年(1869年)高知市生まれ。本名芳衛、桂月と号した。明治、大正期に評論、美文、新体詩、紀行文学等、幅広い分野で活躍した文人である。明治41年(1908年)8月はじめて十和田湖に遊んだ桂月は、その絶景に感嘆魅了され、翌年「奥羽一周紀」として雑誌「太陽」に激賞、天下に十和田湖を知らしめた。 桂月は大正10年11月、15年ぶりに十和田湖、八甲田山を訪れて以来蔦温泉を拠点に県内各地の景勝地、深山幽谷に山水探勝の旅を重ね、美文をもって世に紹介した。 大正14年(1925年)年3月には家族共々蔦温泉に本籍を移し、この地を終のすみかとしたが、同年6月10日病のため新緑が美しく映える蔦温泉の居室で満56歳の生涯を閉じた。 桂月は十和田湖、八甲田の自然と蔦の仙境をこよなく愛するとともに自然保護の必要性を強く訴え、自生する一木一草も採ってはならないといい、在るがままの美しい佇まいと山水の景観を愛し続けた。十和田観光開発に功労の有った武田千代三郎、小笠原耕一と共に十和田湖の国立公園指定に尽力し、大正14年5月には「十和田国立公園期成会趣旨書」の請願文を起草し、その現実を願望した。 世界に冠たる十和田湖は八甲田山と共に、昭和11年(1936年)2月に国立公園の指定を受けて今日の繁栄の基礎となった。 以来60年記念の年にあたり桂月の遺業と心が末永く語り継がれることを願い、ゆかりの地に文学碑を建立するものである。 |