文化7年(1810年)、本丸辰巳櫓を解体新造したものである。当初の天守は五層で、寛永4年(1627年)に落雷で消失した。 |
あれは春の夕暮だつたと記憶してゐるが、弘前高等学校の文科生だつた私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立つて、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひつそりと展開してゐるのに気がつき、ぞつとした事がある。私はそれまで、この弘前城を、弘前のまちのはづれに孤立してゐるものだとばかり思つてゐたのだ。けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひつそりうずくまつてゐたのだ。ああ、こんなところにも町があつた。年少の私は夢を見るやうな気持で思はず深い溜息をもらしたのである。万葉集などによく出て来る「隠沼(こもりぬ)」といふやうな感じである。私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したやうな気がした。 |
弘前城 三句 櫓のみ残りし影や菊日和 破蓮(やれはす)や城の残せる門四つ 搦手もひらきて菊の鉢ならぶ
『殉教』 |