裏に梵字が書いてあり、その下に「南無阿弥陀佛」、「康永四年六月十日孝子敬白」と刻まれている。本来は、こちらが表だったようである。 |
文化元年(1804年)9月10日、菅江真澄は永源寺を訪れて芭蕉の句碑のことを書いている。 |
永源寺(ようげんじ)の扁額は大応和尚の書いたものというが、たいそうりっぱである。この寺の庭の隅に、「康永四年孝子」としるして、南無阿弥陀仏と彫った石碑がある。これはここの山から掘り出したものだとかいう。まことに四百年のむかし、光明院の御世をしのぶにたるものである。この石の裏面に「雲折おり人を休ふ月見かな」という句を書いて、芭蕉翁の句碑としたのは大淵氏である。このようにむやみと刻んだりして、心ないことをしたものだと思うのだが、芭蕉の句碑を建てようと志して、適当な石を探しもとめ、偶然、土中からみいだしたのだという。
『男鹿の秋風』 |