二階堂信濃守行光の末裔、六郷弾正道行が永禄2年(1559年)に稲荷岡の東に築城したと伝えられ、その子兵庫守正乗の居城であったが、正乗は慶長7年(1602年)関ヶ原の戦功により将軍から常州府中城を賜り移った。(正乗は、同9年本庄城に移る) 佐竹義宣が慶長7年に秋田遷封の際、それに先立って家臣川合伊勢、矢田野安房らがこの城を受け取るが、この近辺はまだ人心が落ち着かなかったため、義宣の父義重が人心の収攬を図ってここを居城とした。同8年、小野寺家の浪人ら千人あまりがこの城を攻めたが、町民や農民が一向宗の法師らと共に奮戦してこれを退けた。 義重は、菅江真澄の『月の出羽路』に「近郷近隣に在りつる寺々を此六郷へめし寄せ給ひて、町々も賑ひて竃の煙豊に登り、郷は城下に準(ひと)しう時の鐘を撞かせ給ふ、その繁栄おもひやるべし」とあるような善政を布いたと思われる。 城は、北に稲荷明神、熱田大神宮を祀り、西中央に本丸、東南に二の丸を拝していた。 義重は、慶長17年(1612年)4月19日、66歳で死去。城はそのあと破却された。 |