十六日 吹浦を立。番所を過ると雨降出る。一リ、女鹿。是より難所。馬足不通。番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入には不入手形。塩越迄三リ。
「曽良随行日記」より |
松尾芭蕉が奥の細道の旅をして元禄2年(1689年)の6月16日(新暦8月1日)芭蕉と曽良が吹浦を立ち午前中に三崎に入り昼過ぎ塩越に着く こゝ三崎公園には芭蕉と曽良が実際に往来した三崎旧街道が現存し歴史的貴重な史跡となっている 芭蕉行脚300年を記念してゆかりの地三崎に曽良随行日記碑を建立する |
三崎山街道は、昔酒田より秋田に通る街道で大難所と称され、15世紀末日本海側の唯一無二の旧街道として道路変遷史上に重要な役割を果した。 この小路に築かれた一里塚(30M先)も交通史上高い価値をもつものである。
にかほ市教育委員会 |
一里塚は、慶長9年(1604年)に江戸幕府が旅人たちの目印として、日本橋を起点に一里(4km)ごとに設置した塚(土盛り)です。 一里塚には榎(エノキ)などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていました。 三崎山旧街道のこの一里塚にも榎が植えられており、往時を伝える貴重な史跡です。
にかほ市教育委員会 |
大師堂(三崎神社)は古木鬱蒼としたタブの林の中にある。貞観年中今から1200年前慈覚大師姓は壬生名は円仁の草庵を結ばれた所であって、当時この境内には23の寺院もあったとのことである。 大師は、承和2年請益還学生として支那に渡り、仏教学、梵学等を究めて同14年に帰国し、後天台宗の第2の座主となった。 大師の開山、中興に関わるもの全国に沢山あるが中でも日光、平泉、恐山、山寺及び三崎などはその重なるものである。 大師は独り仏教を広めたばかりでなく、到る所に殖産、興業を起し、道路を開き、交通の便を計るなど、ここ三崎の難所の大師堂も、大師がこの地の開発に力を用いた一端とも見るべきである。
遊佐町 |
元文5年(1740年)2月、榎本馬州は『奥の細道』の跡を辿る。 |
大師崎 初汐や足にゆり込波の音 |
安永6年(1777年)7月19日、松村篁雨は大師崎を経て象潟に赴く。 |
天明4年(1784年)9月25日、菅江真澄は三崎山旧街道を通り象潟へ。 |
やをらくだりて三碕阪に至る。慈覚大師の御堂は、もがさ、はしか、かろらかにまもらせ給ふとて、子のため、むまごのためとて人まうでたりけるが、此みまへにうづくまりぬ。この御堂のしたには、手ながにとられたる人のかばね、あまたありしかど、いまは岩落かさなりて見えざりけりといふ。手ながは水のじちもありけるにや、海に入ては行かふ舟とゞめてける。世におそろしのものなりけりと、かたり伝へ侍る。
齶田濃刈寢(あきたのかりね) |
芭蕉が歩いた当時の街道を下ると日本海の荒波で削られた海岸に出る。小砂川の町道に出て真っ直ぐいくと小砂川海水浴場や樹齢50年をこす黒松や、溶岩のおりなす奇岩怪石の海岸美が目につく。更に峠の茶屋を過ぎると長い砂浜と象潟の先端が岬となった絵のような風景に出会う。先釜から砂浜に出て奈曽川手前から奥の細道でウヤムヤの関として知られる関村に入る。 |