この杉は兜杉と呼ばれ、根周り7.45m、目通り5.50m、枝下高7m、樹高26mもあり、樹齢およそ900年とも伝えられていました。 また、この兜杉は八幡太郎源義家が凱旋のとき、愛用の兜を埋めて、石をその上に置き、そばに記念のため藤原清衡が植えた杉ともいわれていました。昭和58年1月、失火により焼失するまで、市の天然記念物に指定されていました。 昭和58年1月、失火により焼失するまで、市の天然記念物に指定されていました。
横手市教育委員会 横手文化財保護協会 |
寛治7年(1093年)後三年合戦が終に源義家の命をうけた藤原(清原)によって石清水八幡宮の神霊を勧請して建立された。祭神は、八幡三神(誉田別尊・息長帯姫命・玉依比売命)等である。江戸時代には義家の弟である源義光の末裔である佐竹氏が秋田藩主となったため厚く信仰され、慶長9年(1604年)以来十数回の修改築がなされている。
歴史・文化の里づくりをすすめる会 |
明治40年(1907年)9月9日、河東碧梧桐は金沢の柵を見に行った。 |
九月九日。半晴。少驟雨。 後三年の役の古跡として知られておる金沢の柵を見に行く。横手から北二里ばかりに金沢町があって、柵はその町中にある。約二百武処々に杉の立木の残った間を上ると、本丸といい、二の丸、北の丸などいう城跡らしいものの歴然と残っておる頂に出る背(うし)ろはすぐ陸羽国境の山つづきになって、重畳と自然の障壁を容(も)っておる。前は仙北につづく平野が開けて左右に茫漠と限りもない。 その外義家の陣した陣館、鴻雁の乱れたので伏兵のあることを知った西沼、武衡の蛭藻を被って三日隠れた蛭藻沼、景正の敵屍を葬って杉を植えた功名塚など口碑と共に残る古跡は附近に散在しておる。 |
城祉の |
|
近きに家す |
|
青簾 |
金沢の柵を含む横手盆地一帯を戦場とした後三年の役(1083−1087)は、八幡太郎源義家と清原家衡・武衡との戦いで歴史に残る壮絶なものであった この戦いの折り、農民に煮豆を俵に詰めて供出させた所、数日をへて、香を放ち糸を引くようになった これに驚き食べてみたところ、意外においしかったので食用とした 農民もこれを知り、自らも作り、後世に伝えたという |