金沢公園は日本における近代公園の先駆者であり、祖庭とも呼ばれる長岡安平によって設計されました。当時はうっそうと茂り幹廻り12mもあった景正功名塚の老杉(昭和23年焼失)を主木とし、明治の二大戦争である日清・日露戦争の戦勝を記念する2つの石碑を建てました。 用地の多くは、旧金沢町町長も勤めた土豪渡部兵右衛門氏(現所在・横手市金沢中野字小屋165番地 渡部氏)の篤志により寄与され、高低に従って園路を開き階段を設け、花樹松杉を移植し美観風致を加えました。 明治40年の完成時には、功名塚のある丘を績ケ岡(いさしほがおか)、此の園を三功園と名づけました。 その後、神聖な雰囲気がただよう金澤八幡宮境内地とともに、観光道路の整備や桜や山つつじの植栽が行われ、後三年合戦関連の史跡として、また風光明媚眺望絶佳な公演として多くの方々に親しまれ今に至っております。
歴史・文化の里づくりをすすめる会 |
後三年の役に、わずか16歳で初陣し、すばらしい手柄を立てた鎌倉権五郎景正が、将軍源義家の命により敵の屍をこの地に手厚く葬り、弔いのため塚の上に杉を植えました。900年の歴史を語る巨木となっていましたが、昭和23年火災にあい、幹だけを残し今なおその昔を物語っています。 金沢公園はこの功名塚を中心につくられたものです。 |
生地ニ於テ医業傍ニ俳句ヲ良クシ金沢若葉吟社結成ニ参画シ後横手かまくら吟社役員トシテ活躍シ後進ヲ指導シタ |