如斯邸庭園は元禄年間(1688〜1704)に第3代藩主佐竹義処(よしずみ)が近臣の大嶋小助に土地を与え、建てられた別荘がその起源であり、佐竹氏居城の久保田城搦手(裏門側)にあたり、遠く太平山系を望む景勝地に営まれました。 寛保元年(1741年)には第5代藩主義峯(1690〜1749)に献上され、藩主の「御休所」となりました。倹約の旨により一時衰亡しましたが、第8代藩主義敦(1748〜1785)が安永4年(1775年)に再興し、第9代藩主義和(よしまさ)(1775〜1815)によって庭園が整備され、秋田藩校明徳館の助教兼幹事であった儒者那珂通博に「園内十五景」を選定させました。そして、名を「如斯亭」に改め、藩主の御休所にとどまらず、藩内外の文人墨客の交遊の場ともなり、佐竹氏の文化の表徴として多くの詩歌書画に歌われるようになりました。 「如斯亭」の名称の由来は孔子の論語にあり、「逝者如斯夫、不舎昼夜(逝くものは斯くの如きか、昼夜をおかず」からとったもので、水流の間え間なき流れを嘆賞しつつ、人間の 道も学問もまたかくあるべきであるという意味といわれています。 園内北東部の築山の峡谷から発し、中島を配した園池を経て、清音亭の露地に至る絶え間ない水流は、見る人にそれを想わせる構成となっています。 |