嘉永3年(1850年)10月、仁賀保町平沢(現にかほ市平沢)の俳人水月らが平沢海岸の金毘羅山に建立。記念集『潮のはな』(等栽編)。 嘉永5年(1852)閏2月23日、吉田松陰は平沢を通り本庄へ。 |
木浦を經、舟にて一川を濟る。此の間稍海濱を離るれども、平澤に至り又海濱に出で、平沙を行く。本庄に宿す。 |
明治26年(1893年)11月19日、芭蕉翁二百年祭に現在地の丁刃森に補修移転。 |
「建武重二暦丁丑」(1338年)の年号が刻字されており、重二暦とは4年のことである。 丁刃丸の供養塔との伝承がある。
にかほ市教育委員会 |
明治40年(1907年)8月4日、河東碧梧桐は象潟に向かう途中で「丁刃丸の供養塔」を見ている。 |
途中丁刃の森という道端の丘の上に上った。昔出戸の後ろの山に由利某という豪族が住んでおって、近郷に威を張っておったが、ついに他の某という豪族に攻め落された。由利某の遺子は即ち丁刃丸というて、時に十一歳であった。乳母と共に落ち延びて、ここまで来た時、追手がかかった。丁刃丸は追手の二人を斬って後、自刃したという口碑が残っておる。その後年を経て丁刃丸のために碑を立てたというその碑も、風雨にさらされて文字のあとも読み難いものになっておる。大菩提年七月というような字が切れ切れに見える。 |
自然石に方位を示す十二支及び東西南北を刻んでいる。この地域の海事資料として貴重である。
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