三倉鼻公園に正岡子規の句碑や芭蕉の句碑があるというので、訪ねてみた。 |
鯉河の浦に来けり。むかし、さすらへの君こゝに在しころ、この川に鯉を漁(ト)り得てまさなごとに奉りしかば、こは北の国べなどにはなき魚也、めづらしうとてになうよろこぼひ給ひて、鯉川とよぶべしとありしとか。此村二ッに別れてあり、山里めける処ぞ建久のふる道たる。天瀬川ちふ村に、さゝやかの川きよからずながれたり。 遠かたにけふやふるらんあませ川まさるみかさの濁り来ぬれば
『雪の道奥雪の出羽路』 |
三倉鼻の坂中にたゝずみ休らへば、峰になゝきばかりの石の地蔵菩薩を居(スエ)たり。湖水(ミツウミ)いと広く、雄(男)鹿の赤神が岳、寒風山などいと寒げに雪ふれり。 たびごろも身に寒風の山ちかくみるめなぎさの氷る水海 しづくらに似たる山の三なん湖水のへたに在れば、三鞍岬の名はありけりとなん。
『雪の道奥雪の出羽路』 |
明治14年(1881年)、明治天皇が東北ご巡幸の際に当地を訪れる。 |
明治26年(1893年)8月14日、正岡子規は「盲鼻」に至る。 |
三倉鼻は子規足跡の北限の地である。子規は明治26年、27才でこの地に訪れている。「丘上に登りて八郎湖を見るに四方山低う囲んで細波渺々唯寒風山の屹立するあるのみ。三つ四つ棹さし行く筏静かにして心遠く思い幽かなり 秋高う入海晴れて鶴一羽」これはその紀行文「はてしらずの記」の一節である。八郎潟は変貌した。しかしこの一句は永久に八郎潟の姿をつたえるであろう。 |
文化6年(1809年)、工藤学内は急坂に茶亭「望湖亭」を設けて多くの文人を招いた。 |
明治34年(1901年)、奥羽本線敷設に伴い、旧三倉鼻公園の一部を南面岡公園と称した。 |
明治40年(1907年)7月17日、河東碧梧桐は三倉鼻を訪れている。 |
七月十七日。晴。 三倉鼻は湖上の眺望第一に押されておる。が、汽車が通じ、国道が穿たれて、殆ど旧観を止めぬようになった。子規子が来た当時はまだ見るべき松の大樹が丘上に林をなしておって、その松の木の間から湖を見るような景であった。今はその松の樹など、一本も残っておらぬ。なお近頃はここを郡の公園にするというて、台のように土を盛ったり、附近の山々に松や躑躅を植えつけたという。汽車道の上に山から山へ空橋を架ける計画にもなっておるそうな。日比谷公園で見るようなペンキ塗りの白い板にパークと英語で書いた立札が目につく。 |
昭和22年(1947年)6月、斎藤茂吉は三倉鼻に上陸している。 |
三倉鼻に上陸すれば暖し野のすかんぽも皆丈たかく
『白き山』 |