与謝野晶子の歌碑
轟之瀬公園
手前の、切轟又は切通とも言われる流れは正保年中(1644〜1648)「宮之城第4代領主島津久通(慶長9年・1604〜延宝2年・1674)の時、八百屋与兵衛が来て、通船をはかり、岩を砕くといえども、水勢荒く舟の通行は成難」と宮之城記にあります。 時吉側の「新川」は、第14代久宝の天保14年(1843年)に川浚えが行われました。岩の上で木を燃やす「焼石法」で巌石を焼き割り、切り開いたと伝えられています。 |
一瞬に「轟の瀬」をば乗り越えて水けぶりより現はるる船 さかしまに落ちつと見ればほがらかに轟の早瀬わが船すべる
『霧島の歌』(其一)
宮の城 川上に都城のあるを疑はず涼しき風に導かれこし 宮の城われより先に深山より雨こしと云ふ一昨日(をととひ)ばかり とどろの瀬水は若さにをどりつつ時の上をば傳はずて飛ぶ 轟きの瀬は川の火ぞ少年はつぶてとなりて焔(ほのほ)に遊ぶ
『霧島の歌』(其二) |
轟きの瀬は | さかしまに |
|
川の火ぞ | 落ちつと見れば |
|
少年は | ほがらかに |
|
つぶてとなりて | 轟の早瀬 |
|
焔に遊ぶ | わが船すべる |
|
晶子 | 寛 |