与謝野晶子の歌碑


轟之瀬公園

さつま町轟町の川内川沿いに轟之瀬公園がある。

川内川


川さらえの地

 手前の、切轟又は切通とも言われる流れは正保年中(1644〜1648)「宮之城第4代領主島津久通(慶長9年・1604〜延宝2年・1674)の時、八百屋与兵衛が来て、通船をはかり、岩を砕くといえども、水勢荒く舟の通行は成難」と宮之城記にあります。

 時吉側の「新川」は、第14代久宝の天保14年(1843年)に川浚えが行われました。岩の上で木を燃やす「焼石法」で巌石を焼き割り、切り開いたと伝えられています。

 昭和4年(1929年)7月30日、与謝野寛・晶子夫妻は轟の瀬を訪れた。

一瞬に「轟の瀬」をば乗り越えて水けぶりより現はるる船

さかしまに落ちつと見ればほがらかに轟の早瀬わが船すべる

『霧島の歌』(其一)

   宮の城

川上に都城のあるを疑はず涼しき風に導かれこし

宮の城われより先に深山より雨こしと云ふ一昨日(をととひ)ばかり

とどろの瀬水は若さにをどりつつ時の上をば傳はずて飛ぶ

轟きの瀬は川の火ぞ少年はつぶてとなりて焔(ほのほ)に遊ぶ

『霧島の歌』(其二)

夫妻は市比野温泉へ。

川沿いに与謝野寛・晶子夫妻の歌碑があった。



轟きの瀬は
   
さかしまに
  川の火ぞ
   
  落ちつと見れば
    少年は
   
    ほがらかに
つぶてとなりて
   
轟の早瀬
   焔に遊ぶ
   
   わが船すべる
晶子
   


昭和41年(1966年)3月、宮之城観光協会建立。

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