与謝野寛・晶子の歌碑
〜多賀湾〜
ここに見る多賀の海原ひろければこころ直ちに大空に入る | 寛 |
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棚造り臙脂のいろの網をかく多賀の磯より中野濱まで | 晶子 |
昭和9年6月、与謝野寛(鉄幹)晶子夫妻は、伊豆への吟行の折、多賀村役場に立ち寄り歓談し、知人植竹氏の別荘で休憩、数種の歌を詠まれました。いずれも多賀の景観に自己の心情を託した秀歌であります。 昭和9年(1934年)6月6日、与謝野寛(鉄幹)晶子夫妻は伊東の「抛書山荘」へ。7日、一碧湖に舟を浮かべる。8日、多賀村を訪れ、箱根湯本温泉へ。 特に晶子は多賀の自然と人々の素朴な人情をこよなく愛し、夫鉄幹の没後も数回にわたり来遊し、人々の生活と風物を巧みにとらえた歌数十首をのこしております。 |
昭和10年(1935年)3月26日、鉄幹は肺炎で亡くなる。 昭和12年(1937年)12月9日、晶子は多賀に吟行。 昭和13年(1938年)2月12日、晶子は十国峠から多賀村を訪れ、網代温泉「佐賀屋」に泊まる。 昭和59年(1984年)3月、多賀湾を一望するこの景勝の地に多賀中学校が移転新築されたことを記念して歌碑が建立されたそうだ。 |
昭和3年(1928年)3月7日、若山牧水は鈴木浚一に送られて熱海から錦ヶ浦を過ぎて多賀までやってきた。 |
昼飯でも食べて別れようと思うのだが、当時の多賀村は一本すじの淋しい漁師町、茶屋らしい店も見当らない。門に立って居た漁師の細君らしい中年の婦人に無理を言って、酒と御飯さえあればと上げてもらう。鰯のなますで、買って来てもらった酒を飲む。
「或る旅の思い出 鈴木浚一」 |