与謝野晶子の歌碑
道玄坂
富士見坂の下、耕地を隔てゝ向ふの方、西へ登る坂をいふ。(此坂を登りて三町程行けば岐路(わかれみち)あり。直路(すぐぢ)は大山道にして、三間茶屋より登戸の渡、また二子の渡へ通ず。右へ行けば駒場野の御用屋敷の前通り北沢淡島への道なり。)世田ケ谷へ行く道なり。(道玄、或は道元に作る。)里諺に云ふ、大和田氏道玄は和田義盛の一族なり。建暦三年五月和田の一族滅亡す。その残党この所の窟中に隠れ住て山賊を業とす。故に道玄坂といふなり。 |
江戸時代以来、和田義盛の後裔大和田太郎道玄が、この坂に出没して山賊夜盗の如く振舞ったとの伝説がありました。しかし本来の道玄坂の語源は、道玄庵という庵があったことに由来すると考えられます。
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歌人与謝野晶子が詠んだこの短歌は、明治35年(1902年)4月に発行された東京新詩社の機関誌『明星』に収められています。 晶子は前年に郷里の大阪府の堺から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで、与謝野寛と結婚しました。処女歌集『みだれ髪』も刊行しています。詩歌の革新をめざした寛との新婚生活でしたが、晶子にとって身心の負担は思いもよらず大きなものでした。 歌人として、また妻としての多忙な日々のひとときに、住まいから近い道玄坂の上にしばしばたたずんで、西空の果てに連なる相州の山々を眺めていたのです。その山々の方向にあたる遠い堺の生家を思い、母親を懐かしんだのでした。 みずから生家を離れて、新しい生活を渋谷で始めた晶子が、当時ひそかに抱き続けていた真情の一端をこの1首の短歌は語っているのです。 なお、この短歌に彫られている筆跡は、晶子自身の書簡による集字です。
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