景行天皇の御代、大和勢力が日本全国にのびる時に、日本武尊が登場してきます。尊は熱田の宮で、尾張の祖といわれる建稲種命に会われ、副将軍とされ、その妹宮簀姫命と婚約され、東国の平定に出られました。 平定が終わっての帰り道、尊は甲府から信州長野、美濃大井、釜戸、池田を通って尾張との国境内津峠にさしかかりました。その時大へんなことが起こりました。 東海道を帰られた建稲種命が、駿河の海で水死されたことを、従者の久米八腹が早馬で知らせて来ました。それを聞かれた尊は「あの元気な稲種が……」と絶句し、しばらくして「ああ現哉(うつつかな)々々」となげかれ、その霊を祭られたのが内々神社の始めで、内々神社の前の宿場まちを内津といいます。これは内の字の下に、舟や人の集まる意味の津をつけたものです。しかし、その時祭られた場所は、ここより1キロメートル余り入った奥の院だったと思われます。 西側の街道に沿った谷川の右側に細い踏み分け道があり、それをたどったところに大きな岩くらがあります。見るからにおそろしいような鉄梯子を登ると、洞窟の中にある奥の院にお参りすることが出来ます。
春日井市教育委員会 |
内々神社は、旧県社であり、「延喜式神名帳」(法典927)に記載されており、現在の社殿は江戸時代後期の文化年間(1804〜1818)に造られました。 社殿は、本殿と拝殿が平行に並び、その間を幣殿という別棟でつなぐ「権現造り」と呼ばれる構造で、本殿は前面に庇をもつ三間社流れ造り、拝殿は正面中央に向背をもつ入母屋造りとなっています。 |
庭園は、南北朝時代の名僧・夢窓国師(1275〜1351)の作と伝えられ、廻遊式林泉型という形式です。社殿の裏側にあって少しの平地と急斜面を利用して作られており、神社裏山の自然の岩が巧に取り入れられ、その下には丸池が掘られています。 |
此日妙見宮に詣す。舎(いへ)よりハいとちかし。猶奥の院へ参らむといふに、こよなうさかしき道なめり、老の歩の及ぶまじければ、只やミね、と人々いふ。されど阮籍が窮途にこそとゞまらめと笑ひて登る左右大きなる杉どもの枝さしかハして、日の影もゝれず。細き道の苔なめらかに石高し。右の方に天狗岩といへる世にしらず大きなる巌そばだてり。只一ツの山とこそ見しらるれ。かゝる怪しき岩ハ地の国にもをさをさなしとぞ。 這ひのほる蔦もなやむや天狗岩
『鶉衣』(内津草) |
すみれ塚は、庭園を右手に折れて山腹の台地に登ったところが「すみれ草」と呼ばれ、内津の俳人・長谷川三止により建てた。6基の句碑があります。その中に、芭蕉の徳をしたって「山路来て何やらゆかしすみれ草」と刻まれた句碑があります。 |