天下人秀吉は、天文6年(1537年)、ここ尾張国愛知郡中村で生まれた。当初木下藤吉郎と名乗り、織田信長に仕えた。天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が明智光秀によって倒されると、光秀を討ち、信長の実質的後継者となった。さらに全国を統一し、刀狩や検地などを行なった。関白・太政大臣となったのち、天正19年(1591年)、養子秀次に関白をゆずり太閤と称した。慶長3年(1598年)、愛児秀頼を徳川家康らにたくして世を去り、豊国大明神としてあがめられた。 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣により豊臣氏は亡びたが、秀吉は庶民の英雄でありつづけ、今も人気を集めている。 |
昭和9年(1934年)4月15日、高浜虚子は中村公園を訪れている。 |
ひそやかに花見辨當うちかこみ 四月十五日、十時三十分名古屋に行く。牡丹會。中村公園にて。 |
昭和12年(1937年)5月18日、星野立子は中村公園へ吟行する。 |
翌、十八日は中村公園へ吟行する。藤の花、菖蒲の花 など美しく折からの人出の中を静かに茶屋に憩みながら 句作することが出来た。 縁に立てば菖蒲田の水光り見ゆ |
現在の中村公園周辺は19世紀まで、田畑が広がる一帯であった、明治18年(1885年)、豊臣秀吉公出生の地と言われる場所の傍らに豊国神社が創建され、明治34年(1901年)に神社の周辺に中村公園が創設された。 明治43年(1910年)には愛知県が公園の拡張を行い、迎賓館施設(現在の中村公園記念館)が建築された。記念館が建てられた年には、皇太子(後の大正天皇)が行啓の際に立ち寄られている。 中村公園記念館は、建築的には格式ある書院造で、豊臣秀吉の馬印であるひょうたん等の意匠を取り入れた唐破風の玄関に特徴があり、現存している明治期の公共木造建築物としての希少性は高い。 |
明治38年3月愛知高等小学校長毛利徹先生指揮の下にここに植えおきし藤の苗斯くも大きく育ちしを見るに及びて恩師を忍ぶの情切なるものありと云いければ高樹旭子氏に句あり
重善識 |
十月十九日。名古屋中村公園。牡丹会吟行。 よろめいて杖に支へつ秋の晴 石に腰すれば親しや赤のまゝ |
中村公園では大勢の人達に交つて俳句をつくつた。相 変らず挨拶の為に落ちつけなかつた。 わが心いつ落ちつくや蜻蛉群れ 寄りて来る人笑みまつや秋日濃し その夜、得月でたのしい晩餐会があつた。 |