万葉の昔から多くの詩歌に詠われた景勝の地、ここ伊良湖岬の磯に灯台が建てられ点灯したのは、昭和4年11月20日でした。 当初、光源にアセチレンガスを使用していましたが、昭和35年3月に電化され、その後灯台の機能は飛躍的に向上し、灯火については名古屋海上保安部において遠隔監視できるシステムになっています。 また、定期的に事務所から職員が巡回し、機器の点検、施設の保全に当たっております。 |
位 置 | 北緯34度34分34秒 |
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東経137度1分9秒 |
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塗色構造 | 白色 塔形 コンクリート造 |
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等級及び灯質 | 4等 等明暗白光 明3秒暗3秒 |
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光 度 | 1万7千カンデラ |
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光達距離 | 12.5海里(約23キロメートル) |
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高 さ | 地上〜頂部 14.8メートル |
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水面〜灯火 15.5メートル |
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管理事務所 | 第4管区海上保安本部 名古屋海上保安部 |
電話052−661−1615 |
海上交通安全法により前面の水道に伊良湖水道航路が設定され、この灯台は神島灯台と共に名古屋港、四日市港、三河港、衣浦港等に出入りする数多くの船舶の好個の指標として船舶航行の安全に大きな役割を持った重要な灯台です。 この灯台が昭和4年の点灯以来、数多くの船人の命と貴重な財貨を人知れず救ってきたであろうことを想うとき、これからも夜毎美しい光を沖行く船に投げ掛け続けるよう祈念するものであります。
社団法人 燈光会
この周知板は、モーターボート競走公益資金による財団法人日本船舶振興会の補助金を受けて設置したものです。 |
碑の歌は天武4年(676年)天武朝の皇族で三位の位の麻続王(おみのおおきみ)が罪をえて伊良湖に流されたとき里人が哀傷して 「打ち麻を麻続王海人なれや伊良虞の島の玉藻かります」 (麻続の王は海人であるのか、海人でないのに伊良湖の島の海藻を苅って居られる。おいたわしいことだ) と詠んだのに王が感傷して和(こた)えらえれた歌である。 「うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞の島の玉藻刈り食(を)す」 (この世の命が惜しさに私は波にぬれてこの伊良湖の島の海藻を刈って食べているのです) 歌は万葉集巻の一から出典 書は郷土出身芸術院会員文化功労者 鈴木翆軒先生 |
いらごへ渡りたりけるに、ゐがひと申すはまぐりに、あこやのむねと侍るなり、それをとりたるからを、高く積みおきたりけるを見て |
あこやとるゐがひのからを積み置きて宝の跡を見するなりけり |
安永元年(1772年)、加舎白雄は松坂から江戸に帰る途中で伊良湖を訪れている。 |
空蝉之命乎惜美波爾所濕伊良虞能嶋之玉藻苅食ときこへさせ給ひし万葉集の古きを思ひて、はるばるそこにふみ入侍りぬ。 もち汐に玉藻深しやいらこ崎 |
明治36年(1903年)8月15日、長塚節は熊野から船で鳥羽へ。16日、伊良湖崎を巡り豊橋へ。 |
熊野より船にて志摩へかへると、夜はふねに寢てあけがたに 鳥羽の港につきてそこより伊勢の海を三河の伊良胡が崎にい たる 三河の伊良胡が崎はあまが住む庭のまなごに松の葉ぞ散る 十六日、つとめて伊良胡が崎をめぐりてよめる いせの海をふきこす秋の初風は伊良胡が崎の松の樹を吹く しほさゐの伊良胡が崎の萱(わすれ)草なみのしぶきにぬれつゝぞさく
まつがさ集(三) |
昭和29年(1954年)1月、山口誓子は伊良湖に行く。 |
伊良湖 ここも親不知眞近くに鴨浮び 寒の早潮燈臺の胴に倚る
『構橋』 |
昭和36年(1961年)3月、水原秋桜子は伊良湖崎に遊ぶ。 |
伊良湖崎 うぐひすや潮の瀬搏(う)ちて潮の渦 大王崎霞めばいづる若布刈 灘の波あつまる礁(いわ)や磯びらき
『晩華』 |
昭和37年(1962年)9月、阿波野青畝は伊良湖岬を訪れている。 |
天の川垂れて伊良虞は島ならず
『甲子園』 |
昭和42年(1967年)3月22日、高野素十は伊良湖岬へ。 |
同二十二日 名古屋松風会と伊良湖岬行 三句 何もかも渥美半島茎立ちし
『芹』 |
平成15年(2003年)、伊良湖で俳誌『海程』の全国大会が開かれた際に詠まれた句だそうだ。 |