一茶の句碑
光泉寺
文化・文政期に江戸で活躍した俳人(1765−1827)。晩年は郷里、信州柏原で過ごした。草津の俳人黒岩鷺白と親交があり両三度草津を訪れている。解っているのは寛政3年と文化5年のときには、江戸から草津まで4泊5日の旅を「草津道の記」と題する文章で綴っている。「湯けむりにふすぼりもせぬ月の貌」はこの「草津道の記」に記された句である。 |
廿九日 雨 長野原など過ぎて草津の雲嶺庵に入、十八年へだゝりての再会也、スハの若人匏宇に逢ふ。 湯けむりにふすぼりもせぬ月の貎 |
なお、一茶が草津に寄せた心持ちを現代の俳人金子兜太が、碑の裏に見事に解説しています。 |
そこで草津町役場に問い合わせたところ、句碑裏面は次のとおりであることがわかった。 小林一茶は、文化5年(1808年)の夏、奥信濃は柏原への帰郷の途次この地に遊び、雲嶺庵に隠居していた黒岩鷺白との再会を喜び合って、「草津道の記」を書いている。鷺白は当時俳壇の雄で、温泉旅館の主でもあった。時あたかも庶民文化大いに盛りあがる文化文政期。一茶もまたこの時代にふさわしい庶民俳諧師だったから、二人の談笑のさまが目にみえるようだ。「ふすぼりもせぬ月の貌」は、そのまま鷺白の老を知らぬ元気な顔と重なる。
金子兜太 |
文化5年(1808年)5月25日、一茶は祖母の三十三回忌法要参列の為、柏原に向かう。途中草津温泉に遊ぶ。7月2日、柏原着。 |
時鳥しばしば鳴て、花たちばなの香にふるゝころ、昔の人のしきりにしたはしく、信濃なる古郷に首途(かどで)するとて、日吉太兵衛といふ者に跡の事こまかに頼みて、心かろく笠打かぶりて、上野(かみつけ)やはるなの神とがめもなく、草津の湯に炎暑を避て、秋風冷々おとづるゝ日、かねてねがひなる生れ國柏原にやどりて、亡魂祭る火にみそ萩の雫を添へ、又生残る友どちに松の齢を延つゝ打かたりて、二百日あまりとゞま(り)ぬ。 文化五年十二月廿七日
一茶認 |