私の旅日記〜2011年〜
笹野観音〜碑巡り〜
米沢市笹野に幸徳院(HP)という寺がある。
長命山幸徳院
真言宗豊山派の寺である。
明和元年(1764年)、内山逸峰は笹野観音に詣でている。
出羽の米沢にいたる入口、笹野といふ所に観音まします。人多くまうでぬるまゝ、われもまうでゝかへり、米沢のかたへ行に跡よりよしありげなる人独きたりて、われをいかなるものぞと問れしに、都方より出て歌枕尋る者也といひければ、いとゆかしげにあい(ひ)しらひて、酒うる家にいざなひて、われにさけなどくれてしばしかたりあふうち、此人われを試んとにや、いふは、此あるじは祝ひぬる事をよろこぶ人也、祝歌を一首よみてとこのまれけり。酒うるあるじは林崎氏のよし也。
みな人の一つ心にもてはやしさき匂ふ菊や幾千代の秋
とよみて書しるしとらせければ、よろこび思ひけるにや、猶よろしきさけなどとうでゝくれたり。
山門を入ると左手の漱口場側には小さな芭蕉の句碑があった。
ものいへは唇寒し秋の風
出典は『芭蕉庵小文庫』(史邦編)。
この句碑は文化9年(1812年)松尾芭蕉の百二十回忌を翌年に控え、父についで藩の医師で、また俳号を稲丸と稱していた山口彭寿が社中の協賛を得、翁の追善のため建立寄進したものである。
「父」は山口如是坊である。
如是坊の句碑もあった。
長閑さやうまれたまゝのひがしやま
如是坊は米沢の藩医山口立元。美濃派の俳人である。
文化12年(1815年)、没。
右手には大きな芭蕉の句碑があった。
観音乃甍ミやりつ花の雲
高さ240cm、幅120cm、奥行90cmという大きな石碑である。
出典は『末若葉』(其角編)。
貞亨3年(1686年)、芭蕉43歳の時の句。
天保14年(1843年)10月12日、芭蕉の百五十回忌に晋フ山建立。
晋フ山は富豪高橋六左ヱ門。二妙庵。
幸徳院は「笹野観音」として知られている。
嘉永4年(1851年)頃、桑折の俳僧一如庵遜阿は笹野観音で「花の雲の碑」を見ている。
石木戸薬師仏は、死病臨終の期を誓ひたまふとかや。まづ、笹野の霊場にのぼりて祖翁花の雲の碑 高サ八尺余、フ山社建之 を感閲す