出羽の米沢にいたる入口、笹野といふ所に観音まします。人多くまうでぬるまゝ、われもまうでゝかへり、米沢のかたへ行に跡よりよしありげなる人独きたりて、われをいかなるものぞと問れしに、都方より出て歌枕尋る者也といひければ、いとゆかしげにあい(ひ)しらひて、酒うる家にいざなひて、われにさけなどくれてしばしかたりあふうち、此人われを試んとにや、いふは、此あるじは祝ひぬる事をよろこぶ人也、祝歌を一首よみてとこのまれけり。酒うるあるじは林崎氏のよし也。 みな人の一つ心にもてはやしさき匂ふ菊や幾千代の秋 とよみて書しるしとらせければ、よろこび思ひけるにや、猶よろしきさけなどとうでゝくれたり。 |
この句碑は文化9年(1812年)松尾芭蕉の百二十回忌を翌年に控え、父についで藩の医師で、また俳号を稲丸と稱していた山口彭寿が社中の協賛を得、翁の追善のため建立寄進したものである。 |
嘉永4年(1851年)頃、桑折の俳僧一如庵遜阿は笹野観音で「花の雲の碑」を見ている。 |
石木戸薬師仏は、死病臨終の期を誓ひたまふとかや。まづ、笹野の霊場にのぼりて祖翁花の雲の碑 高サ八尺余、フ山社建之 を感閲す |
花と降木の間や雪の大悲閣 |
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紫の雲の中なるさくらかな | フ山 |
坂上田村麻呂の開基、奈良時代・大同元年(806年)に法相宗の名僧・徳一上人によって中興されたと伝えられています。 天正以来(1573年以来)、伊達氏・上杉氏の信仰篤く、現在の御堂は天保4年(1833年)火災で焼失したものを天保14年(1843年)に当時の藩主であった上杉斉憲公が再建したものです。 総ケヤキ造り・彫刻の精巧さは、この地方では珍しい伽藍です。 本尊は千手千眼観世音菩薩で置賜19番、米沢1番札所となっています。 初夏には境内にあるアジサイが見事な花をつけるため、「アジサイ寺」の異名があります。
米 沢 市 米沢観光協会 |
笹野彫は遠く慶長の昔、米沢中興の英主上杉鷹山の産業奨励により笹野の里の人々の特技として起り、鶏の如く早起し、兔の餅つきの如く勤勉に簔笠つけて働けば、鷹の如く禄高を増し、恵比寿大黒にあやかり福徳圓満をむかえ、蘇民将来の子孫の如く無病息災にして、亀の如く長生きし、鶺鴒の如く子孫繁栄することの縁起を有つ古い伝統の民芸玩具である。 現代に於ては更に米沢が誇る特産品として笹野花と創作の数々を加え、美しく巧妙なる郷土民芸品として内外に賞賛を博することとなったのである。 |