2012年山 形

本合海水辺プラザ〜金子兜太・皆子の句碑〜
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山形県新庄市本合海に本合海水辺プラザがある。


本合海周辺の由来

八向楯


 八向山の白い崖の上に八向楯跡がある。規模ははそれほど大きくないが、背後は二重、三重の空濠で断ちきられ、また、「弥蔵泣かせの坂」「馬坂道」等との急坂で囲まれた、難攻不落の堅城である。楯主は合海志摩と称し、この地方一帯に勢力を張っていが、山形最上氏に攻められ、水源を断たれて、ついに落城したと伝えられる。寄せ手の大将は清水大蔵大輔であった。

 宝暦10年(1760年)4月21日、山形の俳人雨声庵山皓は八向楯の景色のことを書いている。

矢向明神の立給ふ岩山の景色いはん方なし、すべて此ところ岩組山のかかり勝手にて、画工も筆におよびがたしとぞ

涼しさのあちら向けり岩の鼻


八向神社(八向大明神)


 八向楯の中腹に鎮座する八向神社は、平安時代中期、貞観16年(874年)、従五位下を授けられた当地方最古の神社である。(『三代実録』による)御祭神は日本武尊、古くに八向大明神と呼ばれた。

義経北国落ちと本合海

 鎌倉時代のはじめ、兄頼朝から追われた源義経は、弁慶以下わずかの家来を従えて、舟で最上川をさかのぼり、本合海に上陸し、これより亀割峠を越えて、堺田を経て、陸奥国平に逃れたと伝えられる。『義経記』に、「八向の大明神を伏拝み奉り、会津の津に着き給ふ」とある。「会津の津」は阿波本に、「あひ川の津」とあるので、現在の本合海に相違ない。本合海は昔は合海の名であった。

積雲寺の地蔵様

 積雲寺は山号を八向山といい、は天正6年(1578年)に開かれた曹洞宗の古い寺である。本尊は慈覚大師作と伝えられる地蔵菩薩。この地蔵様は、昔、村人が八向山の下の最上川で魚取りをしていたとき、網にかかってきたと伝えられる。延命子育ての地蔵として厚く信仰されている。地蔵様が沈んでいた淵は、今も「地蔵巻」と呼ばれている。

金子兜太・皆子夫妻の句碑があった。


郭公の声降りやまぬ地蔵渦
   兜太

ひぐらしの網かぶりたる矢向楯
   皆子

平成12年(2000年)8月、本合海エコロジー建立。

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