2013年山 形

安久津八幡神社〜三重塔〜
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高畠町安久津の国道113号沿いに安久津八幡神社がある。


安久津八幡

 貞観2年(860年)に慈覚大師が安久津の豪族、安久津磐三郎の協力で阿弥陀堂を建てたのが始まりと言われる。後に長井、伊達と歴代領主に保護され、社殿造営や社領等の寄進が行われてきた。

 上杉氏として慶長3年(1598年)に神領50石を兼続が寄進。衰退していた八幡神社の再建計画を立てた。

 関ヶ原の戦い(1600年)により藩は未曽有の財政難に陥るが、元和3年(1617年)には拝殿を上杉景勝が造営。兼続の死去に伴い、一時中断するも、二代藩主上杉貞勝が寛永7年(1630年)に本殿を再建している。

三重塔


安久津八幡神社と三重塔

 安久津八幡神社の成り立ちは、貞観2年(860年)に慈覚大師の発願により阿弥陀堂が建立され、その後、前九年の役の際、源義家が安倍一族を平らげ、鎌倉の鶴岡八幡をこの地に勧請したとされていますが、定かではありません。当時盛んに行われた神仏習合の考えから、阿弥陀信仰が八幡信仰に変わっていったとも考えられます。神社は、置賜地方を支配した長井氏、伊達氏の時代には「東八幡宮」とも呼ばれ、最も栄えた時代でした。広大な境内には、別当神宮寺、学頭金蔵院、衆徒頭千珠院をはじめ12坊がありました。鎌倉時代最古の民間文庫としてしられている金沢文庫(神奈川県)には、弘長3年(1263年)「出羽国屋代庄八幡宮」で修行する能海、湛忍という2人の若い僧が、それぞれ仏書を書写して入庫したものが今でも残されており、当社の古さを物語っております。

 三重塔は、本来寺院伽藍の1つですが、明治の神仏分離令によって、本社内の寺院が廃絶し、その後の火災などにより寺院が失われたため、三重塔のみが残りました。方3間、銅版葺(当初柿葺(こけらぶき)、後瓦葺)で、三島池の中島に建つ、置賜地方唯一の層塔です。三重塔は最初、寛永2年(1625年)に米沢の鈴木十左衛門、高畠の鈴木平右衛門を施主として建てられましたが、寛政2年(1790年)に烈風により倒れたため、寛政5年(1793年)から伊達郡鳥取村山口右源次義高を棟梁として再建に着手し、同9年(1797年)に完成したものです。当時の祝宴の盛大さは、小郡山武田家文書などからうかがい知ることができます。

高畠町教育委員会

本 殿


安久津八幡神社本殿

 安久津八幡神社は、その長い歴史の中で、幾度となく火災に見舞われています。度重なる火災により宝物や記録は失われましたが、わずかに残る神社縁起書や棟札などの記録から、明応9年(1500年)伊達尚宗により社殿を再建された記録を最古として、7度消失し、その度ごとに再建されてきました。現在の本殿は、寛保3年(1743年)に消失した社殿を米沢藩上杉氏九代重定の代、宝暦5年(1765年)に再建されたものです。三間社流造(さんげんやしろながれづくり)、茅葺き、軒組は和様平三斗(わようひらみつと)といいます。棟の両側には鬼瓦があげられ、屋根が半円形に張り出す特異な形状をしています。本殿は近世建築ながら、その手法が優れ、江戸時代を代表する建物として、昭和30年県指定有形文化財に指定されました。

 もともと本殿は、現在地の北、八幡山の中腹に近いところにあり、現本殿の背後に参道やその両脇の堀、旧本殿などの跡を見ることができます。また、八幡山の中腹や山麓には、神社を囲むように十数基の古墳が点在しています。この古墳群は鳥居町古墳群と呼ばれるもので、いずれも横穴式石室を有する7世紀後半から8世紀にかけての円墳です。本殿左手裏に見ることができる古墳は、鳥居町3号墳、4号墳です。

高畠町教育委員会

姥百合が咲いていた。


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