2017年和歌山

粉河寺〜碑巡り〜
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西国三十三所第3番札所の粉河寺へ行ってみた。

大 門


重要文化財
建造物粉河寺大門

 大門は桁行12.48m梁間7.48平面積93.38uを有する規模の大きい楼門で、建立は明らかでないが、各鬼瓦に宝永4年(1707年)の刻銘が見られ、様式上、この頃の建立と考えられる。

 上層の斗キョウ(※「木」+「共」)に雲肘木と尾だるき(※「木」+「垂」)をつかって深い軒を支える構法など、当時の建築としては、他にあまり類のない手法を用いている。建立当時の形態もよく保たれており良質のケヤキ材を用いた雄大な江戸中期の建築として優れている。

紀の川市教育委員会・和歌山県教育委員会

中 門


天保3年(1832年)、建立。四天王を安置す。

「風猛山」の扁額は、紀州十代藩主、治宝候の直筆。

中門を入ると若山牧水の歌碑があった。


粉河寺遍路の衆の打ち鳴らす鉦々きこゆ秋の樹の間に

 明治40年(1907年)、若山牧水は郷里の坪谷から上京の途中で粉河寺を訪れている。

粉河寺遍路の衆のうち鳴らす鉦々きこゆ秋の樹の間に

鉦々のなかにたたずみ旅びとのわれもをろがむ秋の大寺

『海の声』

昭和49年(1974年)5月5日、那智ライオンズクラブ10周年記念に建立。

五橘亭と塊亭の句碑があった。



 水も嘸(さぞ)や白き粉河の山桜
   五橘亭


 風猛(かざらぎ)の名に似ぬ里の小春かな
   塊亭

松尾塊亭は田中五竹坊に師事。

享保17年(1732)、紀伊藩士松尾十郎左衛門の長男として生まれる。
寛政7年(1795)、十郎左衛門の家督を継ぐ。
寛政9年(1797)、家督を長男九之丞へ譲り、隠居。
文化12年(1815年)7月14日、84歳で没。

吉田五橘亭は松尾塊亭の門弟。

丈六堂


文化3年(1803年)の再建。丈六(1丈6尺の略)の阿弥陀如来像を安置。

昭和57年(1982年)解体修理。

丈六堂の前に芭蕉の句碑があった。


ひとつぬいてうしろにおひぬころもかへ

貞亨5年(1688年)4月1日、『笈の小文』の旅の途中の句である。

昭和14年(1939年)、建立。

昭和40年(1965年)6月、山口誓子は芭蕉の句碑を見ている。

 芭蕉の句碑の所在はお守りを売るひとに教えられて知った。石階を下りた左手に朱塗りの一宇がある。その前にある。

 大きな自然石。

   ひとつぬぎてうしろにおひぬころもがへ

 芭蕉の真蹟によったと云うが、全部が仮名書きで、「し」など、いつもの芭蕉とちがって長過ぎる。全体に弱い。

 この句は「芳野紀行」にある。

 旅の芭蕉は、四月一日の衣更の日に、重ね着ていた衣類を一枚脱いで、それを背に負う荷の中に蔵い込んだ。脱いで背に負うたのだ。身から背に移したのだ。

 この句はいずこで作られた句であろうか。「芳野紀行」は、この句を紀三井寺から奈良へ帰る途中の吟としている。


本 堂


粉河観音宗総本山である。

重要文化財
建造物粉河寺本堂

 奈良時代宝亀元年(770年)の創立で現在のものは享保5年(1720年)に再建された江戸時代中期の寺院建築の代表的建造物であり、西国第三番札所である。西国札所の中では最も大きいといわれ内陣の厨子の内深くに秘仏の本尊千手千眼観世音が祀られている。

 本尊の両側には侍者として28部衆、内陣の背面には裏観音、東には鬼子母神、西に不動明王、大日如来、閻魔大王、その他諸尊が祀られている。

 本堂の規模は外陣及び内陣は間口(33.03m)奥行(12.12m)内陣脇陣、後陣は間口(23.93m)奥行(13.03m)向拝は間口(11.81m)奥行(4.15m)を有している。

紀の川市教育委員会・和歌山県教育委員会

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