私の旅日記〜2004年〜
日光東照宮〜陽明門〜
日光二荒山神社から日光東照宮へ。
江戸時代、日光東照宮には毎年4月に朝廷からの使いが派遣されていた。これを日光例幣使と言う。例幣使は、京都を出発し中山道を下り上野国倉賀野で玉村への道をとり、下野国楡木で壬生道、同国今市で日光道中に入った。
例幣使は正保4年(1647年)から慶応3年(1867年)の221年間、一度も中断することなく派遣された。
日光東照宮陽明門
国宝である。
元禄2年(1689年)4月1日(新暦5月19日)、芭蕉は日光東照宮に参詣した。
あらたうと青葉若葉の日の光
元禄9年(1696年)、天野桃隣は東照宮に句を奉納している。
宝永6年(1709年)、明式法師は日光東照宮に参詣している。
日光山に詣ず。日のもとにかくれなし 當山の來由は、羅山が賦にくはし。元は二荒山と云、寶殿の嚴麗、本地の瑠璃光世界の現するにや、ばせを此山にてあらたうと水葉若葉の日の光りといへり。その若葉をつたひ來て、
鎌いれぬ紅葉たふとし日の光
享保元年(1716年)4月15日、稲津祇空は奥羽行脚の途上砂岡我尚・常盤潭北と日光東照宮を訪れている。
深砂王の祠、山王御本社のさまゆゝしく造りならへて、楼門彫工の妙手、中々申もはゝかりあり。
金玉のあつまぞまこと若葉陰
寛保元年(1741年)4月17日、白兎園宗瑞は従兄岑水を誘って日光東照宮に参拝。
院主の案内にて御社の内を拝み廻れは誠に聞及しに弥増り楼門宮殿の粧ひ金をちりはめ玉をみかきて善尽し美つくしていかてことの葉に及侍らんやおもふに 神君の徳光今かく世に輝き侍るらめと折から豊年の麦秋をうたふ
朝日影ふもとへさして麦の色
| 岑水
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下野の花の宮居や絵筆にも
| 宗瑞
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寛保2年(1742年)、佐久間柳居は日光山で句を詠んでいる。
延享4年(1747年)、横田柳几は陸奥行脚の途中で東照宮に参拝している。
東照宮を拝し奉りて
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神風の薫リや瑠璃の宮はしら
| 柳几
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宝暦2年(1752年)、白井鳥酔は日光東照宮を訪れている。
○日光山神祖拜禮之辭
往し年倭漢の良材木金丹青の再興數寄崇信の手をつくして落慶したる秘宮の結構を拜し奉りて退く社頭を踏を恐れ膝行して双手を石疊の上に垂れ目を前後左右におくりて
つくつく詠つくつく思ふに
あら尊うと青葉若葉の日の光
たらぬ花たらぬ鳥なし宮所
宝暦13年(1763年)3月22日、二日坊は日光東照宮に参詣している。
東照大権現の御宮に参詣し奉る
誠や、結構といふも恐あるへし、書とゝめまほしくおもへとも
矢立なとゆるさねは、かひなし
宝暦13年(1763年)3月末、蝶夢は松島遊覧の途上、日光を訪れている。
黒川をかちわたりして、壬生の城下に入。此あたりより大杉の列木、日を覆ひ雨をもらさず。日光の御山には永観坊を宿坊とし、寺の童を先達にして、山菅の朱の橋に肝をけし初しより、かけまくもかしこく金殿・玉楼の三ツ葉四ツ葉に造りみがゝれしはいふもさらに、異国もかうやうにやと拝奉る。雨いたくふりければ、つらなりし軒の金の瓦一入にうるはし。
山吹や流るゝ雨もをのづから
明和6年(1769年)4月10日、蝶羅は奥羽行脚の途上日光を訪れて句を奉納している。
卯月十日青天日光山奉納
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仰ぐべし扇を幣に日の光り
| 嵐亭
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夏山や梢も玉の下しずく
| 蝶羅
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明和7年(1770年)、加藤暁台は奥羽行脚の旅で句を奉納している。