私の旅日記2004年

鑁阿寺〜『徒然草』の碑〜

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三毳山から両毛線に沿って県道67号桐生岩舟線を行き、足利学校に向かう。

足利学校に行く前に、鑁阿寺(ばんなじ)に立ち寄る。


鑁阿寺は真言宗大日派の寺。

関東八十八ヵ所霊場第16番札所である。

 源義家の三男義国は下野国足利郡(現栃木県足利市)を伝領。義国の長男義重は上野国新田郡(現群馬県太田市)を譲られ、新田氏を名乗る。二男義康の子孫は足利氏を名乗る。

義康の三男義兼は、源頼朝に仕える。

義兼の妻は頼朝の妻北条政子(1156−1225)の妹時子。

 建久6年(1195年)3月12日、足利義兼は東大寺で出家、法名を鑁阿房義称と称する。

 建久7年(1196年)、義兼が邸内に大日如来を安置。

これが鑁阿寺の始まりとされる。

鑁阿寺経堂


応永14年(1407年)、関東管領足利満兼により再建された。

昭和59年(1984年)、国重要文化財に指定。

 永正6年(1509年)、柴屋軒宗長は鑁阿寺を訪れている。

 御当家の旧跡鑁阿寺一見して、千手院といふ坊にして、茶などのついでに、今夜はここにとしひてありしに、この院主、もと草津にて見し人なり。かたがた辞しがたくて、三日ばかりあり。


大御堂(大日堂)


本尊は大日如来。

 天保2年(1831年)10月22日、渡辺崋山は足利学校を出て、鑁阿寺へ。

 出て担角清風楼といえるにいざなはる。途に大日如来の堂あり。これなんいと霊場にて街の東にあり。喬木森然として奥に大日の伽藍あり。むねハ雲にそびふるばかり高くひろくて、わたり堂、二王門、三層浮図、経堂、裏門二、誠に荘厳といふべきなり。


『徒然草』(第216段)の碑があった。


   最明寺入道(さいみやうじのにふだう)、鶴岡(つるがをか)の社参(しやさん)の次(ついで)に、 足利左馬入道(あしかがのさまのにふだう)の許(もと)へ、まづ使を遣はして、立ち入(い)られたりけるに、あるじまうけられたりける様(やう)、一献(いつこん)にうちあはび、二献にえび、三献にかいもちひにてやみぬ。 その座には、亭主夫婦、隆弁僧正(りゆうべんそうじやう)、あるじ方(がた)の人にて座せられけり。  さて、「年ごとに給はる足利の染物、心もとなく候」と申されければ、「用意し候(さうらふ)」とて、色々の染物三十、前にて女房どもに小袖(こそで)に調(てう)ぜさせて、後につかはされけり。  その時見たる人の、近くまで侍(はべ)りしが、語り侍りしなり。

 最明寺入道は鎌倉幕府5代執権北条時頼のこと。時頼は康元元年(1256年)11月23日出家し、最明寺殿と呼ばれた。鶴岡(つるがをか)鶴岡八幡宮。足利左馬入道は足利義兼の子、義氏のこと。隆弁僧正は四条大納言隆房卿の子。権僧正。

他にも碑があったが、説明がないので、わからない。

鑁阿寺鐘楼


建久7年(1196年)、足利義兼建立。

昭和26年(1951年)、国重要文化財に指定。

木蓮が咲いていた。


木蓮はモクレン科。

木瓜(ぼけ)


木瓜(ぼけ)はバラ科の花。

土塁と水堀


桜には少し早い。

鑁阿寺は「足利氏宅跡(鑁阿寺)」として国の史跡に指定されている。

日本100名城の一つだそうだ。知らなかった。

足利学校へ。

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