2023年東 京

妙法寺〜有吉佐和子の碑〜

杉並区堀ノ内に妙法寺という寺がある。


 本寺院は日圓山と号す、日蓮宗の寺で、十界諸尊と祖師像が祀られています。寺伝によると開基は覚仙院日逕とされ、開山は妙仙院日圓といい、元和7年(1621年)に没したと伝えられています。

 祖師堂の日蓮像は、弘年元年(1261年)に日蓮聖人が法難にあい伊豆に流された折、同行を許されなかった日朗上人が、鎌倉の岸辺に流れ着いた霊木を得て、祖師の御影を刻んだものと言われています。2年後に赦された日蓮上人がこれをご覧になり、開眼したと伝わります。日蓮聖人が42歳のことでした。日蓮像は、目黒碑文谷の法華寺からこの寺に移され、「厄除祖師」として信仰されています。十一代将軍徳川家斉(いえなり)や十二代将軍家慶が当書院に立寄って休息されたことから、いっそう有名になりました。

 江戸時代から、初詣、節分会、法華千部会、彼岸会、施餓鬼会、御会式には参詣者で賑わい、浅草観音と並び称せられたと『江戸名所図会』に記され、その様子は、二代広重作の浮世絵『江戸名勝図会(堀之内妙法寺)』などにも描かれています。また、妙法寺は、古典落語「堀之内」にも登場します。

 現在当寺には、国指定重要文化財の鉄門をはじめ、都指定有形文化財の祖師堂、書院(御成間)、仁王門、麻布油絵日蓮聖人像の他、額(絵馬)堂など多くの文化財が保存されています。このほか、境内には有吉佐和子の祈念碑も建てられています。

杉並区教育委員会

祖師堂


本 堂


日朝堂


 この御堂は、身延山第十一世行学院日朝上人の御尊像を安置してあります。

 日朝上人は、日蓮宗の代表的教学者として宗門内外に高名であった。

 勉学に精進を傾けられ、そのため眼病を患った。

 回復の後、眼病の人々を救わんと大願を立てられた由縁から、眼病平癒の信仰をかけられる聖者と崇められ、又、稀世の学匠として高名であったから、学業増進・入学成就志望の受験生の参詣が増加して居ります。

 昭和59年(1984年)8月30日、有吉佐和子は杉並区堀ノ内の自宅で死去した。53歳で没。

昭和60年(1985年)、建有吉佐和子の碑建立。


発起人は竹本越路大夫・杉村春子・山田五十鈴・吾妻徳穂。

日円山妙法寺

 堀の内村にあり。日蓮宗一致派にして、頗る盛大の寺院たり。宗祖日蓮大士の霊像は世に厄除の御影と称す。日朗上人の作にして、その先は碑文谷の妙法華寺にありしを、元禄の頃、故ありて法華寺を天台宗に改められし頃、この霊像をば当寺に移しまゐらすといへり(当寺住侶は日性師の代なり。)相伝ふ、弘長元年辛酉日蓮上人(四十歳)伊豆の伊東へ配流せらる。日朗師随身してその地に至らんとすれどこの事恊(かな)はず。依つてその時上人の命に依り、日朗師は鎌倉山井の浜に止まり、日夜師の赦免を祈請す。或夕、同じ海上にして一箇(いつか)の霊木を感得し、日蓮上人の真像を手刻し、常に仕へて怠らず。(この御影は宗祖大師の像を造るの権輿(はじめ)なり。)諸天感応の時至りてや、弘長三年癸亥五月赦免ありて、日蓮上人鎌倉に還り給ふ。その頃この尊像をみて感悦ましまし、我が心身今よりこの木像にうつれり。永く来際に至るまで救護(くご)、衆生の利益無窮ならん、我すでに四十二歳にして救ひを得しかば、この木像に厄除の号を称ふべしとて自ら点眼なし給ふとなり。


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