私の旅日記2013年

将門首塚〜酒井家上屋敷跡〜



東京メトロ大手町を出ると、「平将門の首塚」があったので、行ってみた。


将門首塚の碑

 昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆は徳治2年(1307年)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。

 明治2年(1869年)より第二次世界大戦時まで、この地に大蔵省が設置され、大蔵大臣阪谷芳郎は、故跡保存碑を建立し、後人のために史跡保存の要を告示されたのである。

千代田区教育委員会

石塔婆


「平将門 蓮阿弥陀佛」とある。

東京都指定旧跡

将門塚

 平将門は平安時代中ごろに関東地方で大規模な反乱(天慶の乱)を起こした人物です。徳治2年(1307年)遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を建てて傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は神田明神において祀られ、神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大蔵省再建事業の際に崩されました。幾多の変遷の後、昭和45年(1970年)に将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。

東京都教育委員会

故跡保存碑


東京都指定文化財(都旧跡)

将門塚

 神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平・天慶年間(931〜946)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革を行いました。弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けました。またこの地は神田明神創建の地でもあります。毎年9月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、また5月の神田祭の時には必ず鳳輦・神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も神田祭の時に同保存会の方々により担がれます。現在、同保存会により大切に維持・神事が行われています。

江戸総鎮守 神田明神

東京都文化財

将門首塚の由来

 今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起し忽ちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ馬上陣頭に戦って憤死した。享年38歳であった。世にこれを天慶の乱という。

 将門の首級は京都に送られ、獄門にかけられたが、3日後白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、将門の首塚と語り伝えられている。

 その後もしばしば将門の御霊が祟をなすため、徳治2年時宗二祖真教上人は、将門の蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合せ祀ったので、漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。

 天慶の乱の頃は平安期の中期に当り、京都では藤原氏が政権をほしいまゝにして我世の春を謳歌していたが、遠い坂東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き、人民は食なく衣なく、その窮状は言語に絶するものがあった。その為、これらの力の弱い多くの人々が、将門によせた期待と同情とは極めて大きなものがあったので、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。また天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に、弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となって、その影響するところは社会的にも極めて大きい。茲にその由来を塚前に記す。

史蹟 将門塚保存会

酒井家上屋敷跡

江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末、伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである。

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