幡ケ谷村にあり。真言宗光明山荘厳寺に安置す。本尊不動明王の像は智証大師の作なり。毎年四月八日より同十八日まで内拝せしむ。相伝ふ、往古(そのかみ)智証大師江州三井寺を創建の時、彫刻の霊像なりといへり。天慶年間平将門東国に在りて逆威を震ひ、帝を悩まし奉る。故に平貞盛及び藤原秀郷等追討の宣旨を蒙り、東国に発向す。その時三井寺よりこの本尊を奉持して、陣中に移し奉り、軍(いくさ)の勝利を祈誓せしが、同三年庚子果して将門を討ち亡したりしにより、後この霊像を下野国小山郷へ遷しまゐらす。然るに永禄の頃、武田信玄甲州に安座し奉りしを、又北条氏政奪ひ取りて、相州築井といへる所の寺院へ入れ奉りしを、つひに天正十八年四海安靖なるに及んで、当国多磨郡宅部(やけべ)の三光院に伝へありしを、霊夢の応あるを以つて、延享四年丁卯永く当寺に安置し奉るといへり。
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墓地への通路の左側に芭蕉の句碑があった。

暮おそき四谷過けり紙草履
寛政10年(1798年)10月11日、鈴木道彦は倉田葛三らと荘厳寺の無説上人を訪ねた。
暮遅き四谷過きけり紙草履 はせを
此二十字を無説上人のためにかいつけまいらせけるを、やかて石にゑりつけて、こゝにも翁塚ある事にはなりぬ。寛政十年十月十有一日明日こそゆゝしきゆかり日なれとて、わひつくせる友とち、よたりいつたり打つれ一夜泊りの杖をしひきつるにぞ、そこの笹生の枯花、かしこの岡の遅紅葉と尋(ね)さまよふ程に、ひよひよ鳥の啼かへるころ、漸御寺の陰廂に笠をおく。扨また上人あくまでのねちけ人にて、おかしさかきりなし。
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新久麗(しぐれ)ぬを少し恨やわらしとく
| 道彦
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もやす尾花に頭巾めせめせ
| 無説
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啼鴉よめの公盒子を餌にまきて
| 葛三
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『芳草集』(禾木編) |
荘厳寺住職尊俊行徳は道彦の高弟無説。
文化2年(1805年)4月11日、鈴木道彦は幡谷の荘厳寺に行く。
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十一日 晴 金令幡谷行 止錠ヲ盗マルゝ
『文化句帖』(文化2年4月) |
無説の句
里並や杓子くれても春をいふ
枯菊になるをなふるや隣の茶
荘厳院のしくれ会ハ
今は昔といへはめてたし十二日
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