私の旅日記2008年

妙楽院長命寺 〜芭蕉の句碑〜
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西武池袋線練馬高野台北口を出ると、笹目通り沿いに長命寺がある。


長命寺南大門


鐘楼と紅葉


長命寺本堂


 東高野山(旧谷原山)妙楽院長命寺は、真言宗豊山派の寺です。

 慶長18年(1613年)、後北条氏の一族である増島重明(慶算)が一院を開き、その志を継いで弟の子重俊が諸堂を建立、寛永18年(1640年)に大和(奈良県)長谷寺の秀算により「長命密寺」と号しました。

 寺域は紀州高野山に倣ったもので、東高野、新高野と呼ばれました。江戸幕府より九石五斗の御朱印を受け、府内八十八か所十七番霊場になるなど関東における有数の庶民信仰の霊場になりました。

練馬区教育委員会

 文化14年(1817年)8月17日、国学者高田与清は長命寺のことを書いている。

谷原村の谷原山長命寺は、世にあづまの新高野ともよぶ。すべて紀のくにの高野山になずらへてつくりなせり。


本堂の右手に水原秋桜子の句碑があった。


木々ぬらし石うかちつひに春の海

秋櫻子が石橋長英に対して最晩年におくった句だそうだ。

昭和56年(1981年)7月17日、秋桜子没。享年88。

昭和57年(1982年)6月6日、建立。

『秋櫻子句碑巡礼』(久野治著)によれば、第91番目の秋桜子句碑である。

この句の碑は葛飾区の帝釈天にもある。

本堂の前には芭蕉の句碑があった。


父母のしきりにこひし雉子の聲

出典は『笈の小文』

貞亨5年(1688年)春、芭蕉が杜国と高野山を訪れて詠んだ句。

   高野

ちゝはゝのしきりにこひし雉の声

ちる花にたぶさはづかし奥の院   万菊

万菊は流刑中の杜国。

 寛文6年(1666年)4月25日、芭蕉の主君良忠(俳号蝉吟)は25歳で没し、芭蕉は蝉吟の位牌を高野山報恩院に納める使者を務めたという。

安政6年(1859年)3月、当山現住二十一世泰英代建立。太白堂孤月書。

太白堂は天野桃隣の号。太白堂六世が江口孤月。

長命寺観音堂。


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