連歌師宗長は1448(文安5)年、駿河国島田に鍛冶職人五条義助の次男として生まれたといわれています。
宗長は宗祇(全国に連歌を広めた室町時代後期の人)に師事し、連歌を学ぶとともに、駿河国の守護今川氏に仕えました。
また宗祇没後は連歌界の第一人者として、二世花の下宗匠になり、三条西実隆や一休和尚などと親交がありました。57歳の頃に、丸子宿(現在の静岡市駿河区丸子)吐月峰へ草庵「柴屋」を営み晩年を過ごしました。その後も幾度となく旅に出て、その生涯の大部分を旅に暮らし、1532(享禄5)年85歳で亡くなっています。
ここには石碑が3基建立されています。
右から順番に紹介します。
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宗長句碑

〜遠江国、国(故郷の意)の山ちかき所の千句に
こゑ(声)やけふ(今日)はつ蔵(初倉)山のほととぎす〜
芭蕉翁を慕う漢文碑(釈文省略)
芭蕉さみだれ古碑(断碑)

〜(さみ)たれの(空)吹きおとせ大井川〜
この場所は、元禄年間(1688〜1704年)に、島田宿の俳人塚本如舟が、宗長法師の昔に思いを寄せ、如舟所有の土地に宗長庵(長久庵)を営み、島田宿の雅人たちと諷詠を楽しんでいた所です。また如舟と親交の深かった松尾芭蕉もここを訪れています。
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昭和32年3月22日指定
島田市教育委員会
元禄7年(1694年)5月15日、芭蕉は島田に着く。大井川の川止めで3日間如舟の家に世話になり、19日に島田を立つ。
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十五日、嶋田へ着候而、一夜留候処、其夜大雨風、水出候而三日渡り留候而、十九日立申候。いまだ高水にて、馬のしりがひ(い)やうやうかくれぬほどの事に候得共、嶋田の宿は懇意之者共故、馬・川越随分念入、一手ぎは高水をこさするを馳走に致候。嶋田より一通、書状頼置候。相届候哉。
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宝暦13年(1763年)3月1日、二日坊は宗長庵を見ている。