2011年静 岡

久延寺〜夜泣石〜
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掛川市佐夜鹿に久延寺という寺がある。


久延寺山門


 掛川市指定文化財
久延寺境内

 久延寺は、真言宗の寺院で山号を佐夜中山。

 本尊は、聖観音で、「昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、子は成長して親の仇を討つことができた。これはひとえに本尊の加護によるものである。」という夜泣石の伝説に因み、子育て観音と称される。

 慶長5年(1600年)、掛川城主山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大阪から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。

掛川市教育委員会

佐夜中山久延寺


高野山真言宗の寺である。

本堂の右手に夜泣石があった。


伝説 小夜の中山夜泣石

 その昔、小夜の中山に住むお石という女が菊川の里へ働きに行っての帰り、中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。

 その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。里人はおそれ、誰と言うことはなく、その石を「夜泣石」と言った。

 傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり、大和の国の刃研師の弟子となった。

 そこへ轟業右衛門が刃研に来たおり、刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数年前小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。

 その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。

文化元年滝沢馬琴の「石言遺響」より

 宝暦6年(1756年)4月、白井鳥酔は「夜泣石」を見ている。

夜啼石 角文字の伊勢なる石の如くものいふ事をうつすにもあらす、那須野の原にある石に似て殺生をするにもあらす、雨にも飛はす風にも動かす無能なりといへとも、無量壽佛の御名を彫て捨置るはさすかに謂なきにしもあらし。もしは弘法大師の例の細工にやしらす。

澤ふかし石の谺に啼水鷄

跪ぬ石に聲ありほとゝきす
   烏明


 明和8年(1771年)、木兎坊風石は小夜の中山で「夜泣石」を句に詠んでいる。

   小夜の中山

夜啼とは石にも聞つほとゝきす
   木兎


茶亭跡


徳川家康御手植五葉松


五葉松の下に芭蕉の句碑があった。


馬に寐て残夢月遠し茶の煙

出典は『野ざらし紀行』

貞亨元年(1684年)8月、小夜の中山で詠まれた句。

昭和47年(1972年)正月、建立。

 「夜泣石」は佐夜の中山峠旧道の真中にあった。

 明治元年(1867年)、明治天皇の御東幸の折、道端に移す。その後、久延寺に移した。

 明治14年(1881年)、東京の第2回勧業博覧会に出品。その後、国道1号線「小夜の中山トンネル」横の小泉屋の裏に置かれる。

 昭和11年(1936年)、小泉屋は銀座の静岡物産展出品。その後、久延寺は別の石を境内に安置。

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