2022年静 岡

宝台院〜徳川慶喜公謹慎之地〜
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岡市葵区常磐町に宝台院という寺がある。

永正4年(1507年)、大本山鎌倉光明寺九世観誉祐崇上人により開創される。

金米山宝台院


浄土宗の寺である。

 宝台院は、徳川家康の側室で二代将軍秀忠の生母西郷の局(お愛の方)の菩提寺である。

 西郷の局は、27歳で家康に仕え、翌天正7年(1579年)4月、家康の第三子秀忠を生んだ。家康37歳のときである。

 このころ、家康にとっては、浜松にあって、三方原の合戦、設楽原合戦、小牧長久手の合戦と、戦争に明け暮れた最も苦難な時代であった。西郷の局は、家康の浜松時代に仕え、苦しい浜松城の台所を仕切った文字どおり糟糠の妻であったということができる。

 天正14年12月、西郷局は、長かった苦難の浜松時代を終え、名実共に東海一の実力者となった家康と共に駿府入りした。家康の陰の立役者として、献身的に仕えた西郷局は、駿府入りとともに浜松時代の疲れが出て、天正17年5月、38歳の短い生涯を終った。

 後年、将軍職についた秀忠は、母のために盛大な法要を営み、その霊をなぐさめた。以来、徳川300年の間、この宝台院は、徳川家の厚い保護を受けたのである。

静岡市

徳川家康公側室・秀忠公生母 西郷局(お愛の方)之墓


徳川慶喜公謹慎之地


宝台院と徳川慶喜公
 明治元年7月、第十五代将軍徳川慶喜公、御謹慎の身となり、同月19日水戸を出発して銚子港に到着し、同月21日蟠龍艦に乗船し、同月22日に清水港に到着しました。海路にて移動したのは、上野彰義隊の戦いの興奮も冷めない江戸を通ることが、極めて危険な事だったからでしょう。この時目付の中台信太郎(のち駿府藩町奉行)がこれを出迎え、また精鋭隊頭松岡万以下50名の厳重な護衛がついて駿府に向かいました。慶喜公が討幕派、旧幕臣の双方から命を狙われる重要人物であった事情に加えて、無政府状態とも言うべき当時の駿府の町の状況がこのような物々しい警備体制を必要としていました。

 一行は当日夕刻には宝台院に入りましたが慶喜公の駿府移住は秘密裏に行われ町民には一切知らされていませんでした。慶喜公の駿府入りが町触れで知らされたのは、その5日後の28日のことでした。

 尚、宝台院を慶喜公謹慎の場所に選んだのは元若年寄の大久保一翁でした。彼は駿府町奉行の経験もあってこの町を熟知しており、徳川第二代将軍秀忠の生母西郷局が葬られた宝台院こそ慶喜が落ち着いて過ごせる場所と考えたのでしょう。以来、誠心誠意謹慎をされ翌明治2年9月28日、謹慎が解け10月5日紺屋町の元代官屋敷(現在の浮月楼)に移転されるまで、約1年余りを当山で起居されました。この謹慎の部屋は10畳と6畳の2室で、10畳の間を居間、6畳の間を次の間として使用し、当時渋沢栄一勝海舟と面会したのもこの6畳でした。

 明治元年8月15日、藩主亀之助(家達公)が駿府に到着した時も、先ず宝台院に参上し御霊屋に参礼の後、やはりこの部屋で対面したとのことです。家達は七間町3丁目を曲がり、御輿で大手門より入城されましたが、当時まだ7歳というお年でした。

 現在の宝台院には、慶喜公の遺品として、キセル、カミソリ箱、急須、火鉢、本人直筆の掛軸、居間安置の観音像が残っております。

静岡市

キリシタン灯篭


古田織部が製作し駿府城へ奉納したものを、家康の侍女ジュリアおたあが信拝した。

その後キリスト教禁令がでて、おたあは神津島へ配流された。城内より静岡奉行所を経て宝台院へ移された。

かしく坊の辞世


富士の雪とけて硯の
すみ衣かしくは
  筆の終りなりけり

当山の裏門にて死去

墓には「正徳六丙申二月朔日摂津大坂生かしく」とある

戒名は「雲水夢覚」

駿府96ヶ町のうち 下 魚 町


 この地は用宗方面から運ばれる魚介類を扱う商人が集まり、慶長年間に城中御用の魚問屋が置かれました。

 城から離れているため、その一部が金座のあった付近に移されて上魚町、この地は下魚町となり、地元の人々からはそれぞれ「かみんだな」「しもんだな」と呼ばれました。また江戸時代の地誌によれば下魚町には塩問屋が集まり、塩屋町とも呼ばれていました。元禄5年(1692年)の「駿府町数・家数・人数覚帳」によると、当時の下魚町の家数は38軒、人数は236人でした。

 町の南側には宝台院があり、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の生母西郷局の菩提所となっています。

 下魚町は昭和20年(1945年)に常磐町に編入されました。

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