臥龍梅 道々も此木這てやむめのはな |
臥龍梅 同二蓼師一 うめかゝの這渡りけり茶店か床 |
十日 晴 文国宿 梅屋敷 只の木はのり出で立てり梅[の]花
『文化句帖』(文化2年正月) |
十五日 晴 北風 祗兵と梅屋敷ニ入 十兵衛息年礼 野逸死ス
『文化句帖』(文化4年1月) |
臥龍梅 梅園に老い行く年を臥す竜の爪もあらはに花まばらなり |
明治43年(1910年)、水害で大部分の木が枯れ、大正10年(1921年)完全に滅びたそうだ。 明治43年(1910年)8月10日、埼玉県幸手の権現堂提が切れ、浅草の観音様まで水が来た。この大水害で東京市長尾崎行雄は荒川放水路の計画を立てたという。 正岡子規が歌を詠んでから12年後に「臥龍梅」の大部分の木が枯れてしまったわけである。 |