2004年下 町

馬込文士村〜散策の道〜
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 馬込文士村は広いので、とりあえず南外れの大田区立龍子記念館を目指すことにする。

 天祖神社から日本芸術専門学校の脇を通り、山王公園に向かうと、闇坂(くらやみざか)の標識があった。


闇坂(くらやみざか)


 むかし、坂側に八景園という遊園地があり、その反対側に加納邸があって、この坂道は細く曲り、八景園の樹木がうっそうとおおいかかり、昼間でも暗かったために、この名がついたといわれている。

環七通りを越えると、大倉山公園の手前に龍子記念館までの案内があった。




臼田坂(うすだざか)を上る。

臼田坂(うすだざか)


 坂付近に、古くから臼田を姓とする人が、多く住んでいた関係から、この名が起ったといわれている。

バス通りに出ると、今度は右近坂(うこんざか)

右近坂(うこんざか)


 この坂名の由来については、近くに「右近」という者、あるいは「おこん」という女性が住んでいたからとか、いろいろな伝説があり、明らかでない。

臼田坂(うすだざか)を下り、龍子記念館入口を入ると大田区立龍子記念館がある。




臼田坂下に画室を新築した川端龍子

(1885〜1966)

 日本画の巨匠川端龍子は、明治42年24才の時、牛込矢来町より入新井新井宿に移ってきました。この頃はまだ作品を認められてはいませんでしたが、挿絵を描いたり、国民新聞社に勤めたりして生計をたてていました。

 大正2年に渡米した際ボストン美術館で日本画に魅せられ、龍子は油絵から日本画へと志向の転換を決意します。翌3年には、処女作『観光客』が東京大正博覧会に入選し、日本画家として立つきっかけを掴みました。その後はつぎつさぎと作品が認められ、大正9年現在の臼田坂下に住宅と画室を新築し、ここを御形荘と名付けました。

 ─画人生涯筆一管─という句があるように画業に専念する人でしたが、唯一の趣味としての建築は、龍子持ち前の器用さと熱心さを反映して素人の域を脱するものでした。龍子記念館、屋敷内の建築は全て龍子の意匠に依るものです。

参考文献 集英社【現代日本の美術】

大田区立龍子記念館へ。

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