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石橋供養塔〜新宿の渡し〜

一里塚跡から旧水戸街道を歩く。

環七通りを越えると、中川がある。


隅田川と利根川の間に夾(せま)りて流るゝ故に、中川の号ありといへり。 荒川の分流熊谷の辺よりはじめて、遠く埼玉と足立との両郡の合(あひだ)を流れ、利根川の分流も川俣よりはじまり、二水猿が俣の辺にて合し、飯塚・大谷・亀有・新宿等の地に添ひて、青戸・奥戸(おうと)・平井・木下(きげ)川及び小村井・逆井を経て海に入る。 (猿が俣より末を中川と称し、上を古利根川とよべり。往古(いにしへ)水戸黄門光圀卿水府入部の頃、この中川の水中にして一の壺を得たまひしより、年々宇治へ詰茶に登せらせ、その器を中川と命ぜられたり。)

中川やはふりこんでもおぼろ月
   嵐雪


中川


ここに「新宿の渡し」があった。

にい宿のわたし


歌川広重『名所江戸百景』

明治17年(1884年)に中川橋が出来るまで、中川を舟で越えていた。

新中川橋を渡ると、新宿。

 文化5年(1808年)6月14日、一茶は新宿から流山へ。

 十四日、晴 熱田明神の祭有、千住秋香庵中飯。小菅村水戸橋ふしん、舟渡し。新宿より高須村といふ所に堤有、去卯六月三日洪水に破れて、新堤によし簀引はりて餅など売有。足を休。

六月や草も時めくわらじ(ぢ)茶屋

泣堀通流山ニ入

『文化五年六月句日記』

 文化7年(1810年)3月28日、小林一茶は新宿から流山へ。

新宿より泣堀伝ひ二里、谷中村より左の橋渡りて二十町、流山に泊。昨烏・藻風・木之。

『文化三−八年句日記写』

 嘉永4年(1851年)12月14日、吉田松陰は東北遊歴の旅に出、新宿から松戸へ。

 綾瀬川の橋を過り、新宿を經て松戸驛に至る。新宿驛の前に中川あり、松戸驛の前には松戸川あり、皆舟にて之れを濟す。其の橋を架せざるは、舟の上下するもの帆を張りて過ぐるに便なればなり。


右に左に鍵の手に曲がると、国道6号(水戸街道)に出る。


そば処「あづまや」の横に石橋供養塔があった。

石橋供養塔


正面 左 水戸街道 右 奈りだちば寺道

右面 成田山さくらみち

 葛飾区指定有形文化財

水戸街道石橋供養道標

 水戸・佐倉両街道の分岐点に立つ道標です。この地域の万人講、女中講の人々は、安永2年(1773年)から5か年を費やし、27か所の石橋を架けました。これはその供養のため、不動明王像と道標を、この町の石工中村左ヱ門に造らせたものです。当時27か所もの石橋を架けることは、協同事業とはいえ大変な大事業であったと思われます。また今は無くなってしまいましたが、この道標(竿石)のうえに不動像を安置していました。

 新宿町は水戸・佐倉街道の分岐にある宿場町で、千住から1里余り中川を渡りちょうどこの辺りで水戸街道は金町へ(水路に沿った道を左に)、そして佐倉街道は上小岩へと向かいます(現在の水戸街道を越えて右に入る。)この佐倉街道は参勤交代に利用されただけでなく、元禄(1688年)以降、民間の信仰が盛んになると、成田山新勝寺千葉寺参詣の道としても利用され、成田道、千葉寺道と呼ばれるようになりました。

葛飾区教育委員会

藪入や三組一つに成田道

『七番日記』(文化14年正月)

 「藪入」は、草深い土地へ帰る意で、正月および盆の16日に奉公人が暇をもらって親元または請人の家へ帰ること。また、その日。宿入り。宿下がり。新年の季語。

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