中川船番所は中川番所・中川関所とも呼ばれ、江戸と関東各地を結ぶ河川交通路上に設けられた関所です。寛文元年(1661年)に、それまで小名木川の隅田川河口にあった幕府の川船番所が移転したものです。建物は小名木川に面し、水際には番小屋が建てられていました。主に、夜間の入船・出船、女性の通行、鉄砲などの武器・武具を取締まるなど、小名木川を通る川船の積荷と人を改めることを目的としました。
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中川番所「東京名所図会」

中川番所が置かれた地は、「江戸名所図会」に見られるように、帆を張った高瀬船が行く中川と番所の手前を流れる小名木川、そして行徳へとつながる船堀川が交差する地で、利根川・江戸川を通じて江戸と関東が結ばれる河川交通上の重要な地点あった。
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加舎白雄は両総行脚の頃、中川の関を越える。
両総行脚の頃、中川の関越るとて
水にかげ関の夜明をほととぎす
「鎌都」 |
寛政3年(1791年)4月8日、一茶は故郷柏原へ足をむけようとして、行徳で船に乗って、同行の女2人男2人と中川の船関所まで来たところ、防守(さきもり)(番人)がすさまじい怒りの眼をして女2人を追い返そうとした。船頭が藪を通ってゆく抜道を教えてくれたので、その教えの通りにすると楽に関を越すことができた。
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行徳より舟に乗て、中川の関といふにかゝるに、防守、怒の眼おそろしく、婦人をにらみ返さんとす。是おほやけの掟ゆるがせにせざるはことわり也。又舟人いふやう、「藪の外より、そこそこのうちを通りて、かしこへ廻れ」といふ。とく教のまゝにすれば、直に関を過る事を得たり。誠に孟甞君が舌もからず、浦の男の知恵もたのまず。げにげに丸木をもて方なる器洗ふがごとく、隅み隅みの下闇を見逃(す)とは、ありがたき御代にぞありけ(る)。
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茨(ばら)の花爰(ここ)をまたげと咲きにけり