下 町〜江東区
富岡八幡宮別当永代寺跡
〜「園女歌仙桜の碑」〜
宝永2年(1705年)、芭蕉の門人園女は其角を頼って江戸に出て、富岡八幡宮の門前に住む。 |
寶晋齋のもとに馬おりし侍りて |
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霜やけも不二の光の心まゝ | その女 |
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有やなしやの蕪をふところ | 其角 |
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深川公園は、明治6年(1873年)太政官布達によって定められた日本最初の公園の1つです。 この公園は元来、富岡八幡宮の境内で遊行の地として大変賑わい、東、西、南側の3面は小堀となり、それぞれに橋がかかっていました。 西側には、油堀川より水を引き入れた汐入りの池があり、東側には、小高い丘がありました。明治12年(1879年)には梅、桜を植え花園として整備しました。 明治40年(1907年)に、上野で開かれた東京勧業博覧会の建物を移築して、明治42年(1909年)に深川図書館が建てられましたが、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失しました。 震災復興事業では、池を残して庭球場や広場になり、第2次世界大戦中に池は埋められ運動場になりました。 |
寛永4年(1627年)、長盛法印が富岡八幡宮を建立して別当となり、その坊舎が承応2年(1653年)に京都仁和寺から永代寺の寺号を与えられた。 |
永代寺池邊 池を呑犬に入あひ花の影 |
正徳2年(1712年)、江戸六地蔵の一体が永代寺に造立された。 江戸六地蔵は千葉街道の永代寺の他、東禅寺(奥州街道)、品川寺(東海道)、太宗寺(甲州街道)、真性寺(中山道)、霊巌寺(千葉街道)にあった。 文化2年(1805年)11月10日、小林一茶は富岡八幡宮を訪れている。 |
十日 晴 金令 湖光 深川八幡春蟻訪ふ
『文化句帖』(文化2年11月) |
文化8年(1811年)3月6日、永代寺で信州戸隠明神九頭竜権現開帳。 |
十六 晴 戸隠開帳始
『七番日記』(文化8年3月) |
廿 晴 桂国ト戸隠開帳参 戸隠 権見(現)やどの御耳で時鳥
『七番日記』(文化8年4月) |
廿一 晴 桂国ト開帳参 |
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廿六 晴 戸隠開帳 |
『七番日記』(文化8年5月) |
明治元年(1867年)、神仏分離令により永代寺は廃寺となる。現在の深川不動尊参道にある永代寺は、永代寺塔頭吉祥院が明治29年(1896年)に改称したもの。 |
深川公園から清澄通りにでると、首都高9号深川線の下に油堀川公園があった。 |
油堀は深川佐賀町から富岡八幡裏を過ぎ、木場に達する堀川。佐賀町に油問屋の会所があったため、この名前が付けられたそうだ。 |
八 小雨 午刻晴 未刻舟ニ入 夜 戊(戌)刻深川油堀ニ入 舟泊
『七番日記』(文化9年5月) |