2011年下 町

江東区旧千葉街道〜五之橋〜
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江東区大島の竪川に五之橋が架かる。


五之橋北詰に「旧千葉街道」の標柱があった。


 旧千葉街道は両国橋から竪川の北岸沿いに東へ通じ千葉方面にいたり江戸時代から佐倉道と称し江戸と千葉方面を結ぶ重要な陸路であったが、明治時代からの市区改正事業などにより現在の国鉄総武線に沿った新しい千葉街道が建設されるにいたった。

昭和33年10月1日江東区第17号

昭和62年(1987年)3月31日、国鉄(日本国有鉄道)は分割民営化。

五之橋

 五之橋の下を流れる竪川は、万治2年(1659年)本所築立奉公であった徳山五兵衛重政及び山崎四郎左衛門が、大横川、横十間川と共に新田開発を目的として開削した用水路であった。

 竪川の開削に合わせて西の方から、一之橋を始めとして五つの橋が架けらた。当時この付近は、畑地が多く人の往来も少なかった。

 御府内備考によれば、「御入用無益之場所」として、貞享元年(1684年)本橋は取り払われ船渡しとなったと言われている。

 元禄8年(1695年)五百羅漢寺が建立されたため、この渡しを利用する者も多くなり、「羅漢の渡し」や「五ツ目の渡し」と呼ばれ人々に親しまれてきた。

 その後、明治12年(1879年)に木橋が架けられたが大正12年の大震災により落橋した。

震災復興により昭和3年本橋は鋼橋に架け替えられた。

 戦災にも耐えた本橋は老朽化により、昭和50年再度架け替えられた。

 親柱は震災復興記念として現在も残されている。

 亀戸、大島地域の発展に大きな役割を果たしたこの橋は、昭和63年東京都著名橋に指定さた。

伊藤左千夫の歌のパネルがあった。


竪川の野菊の宿は初芽すぎ二の芽摘むべく群れ生ひにけり

 新聞『日本』(明治40年5月7日)に「勾玉日記」(4月29日)として掲載。

花のたよりもいつしか疎く、若葉の室の衣更、外のべも内べもおのづから、晴れ晴れしうなり來にけり、きのふまでも雪に籠るなど云ひこしける、諏訪人のたよりにさへ、温泉湧く信濃の山里も、夏は都におくれずとありて

                     柿の村人

   山國の春もくれぬれ、種おろす田なべのカリンさ芽暢びにけり

   錦木の八十樹百樹の植籬あたり清らに小花散りつも

      こたへ歌

竪川の野菊の宿は初芽過ぎ二の芽摘むべく群生ひにけり

青あらし楓はゆらぐしかすがに常盤木椎は猶眉芽(まよめ)なり

「柿の村人」は島木赤彦の別号。

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