五之橋の下を流れる竪川は、万治2年(1659年)本所築立奉公であった徳山五兵衛重政及び山崎四郎左衛門が、大横川、横十間川と共に新田開発を目的として開削した用水路であった。
竪川の開削に合わせて西の方から、一之橋を始めとして五つの橋が架けらた。当時この付近は、畑地が多く人の往来も少なかった。
御府内備考によれば、「御入用無益之場所」として、貞享元年(1684年)本橋は取り払われ船渡しとなったと言われている。
元禄8年(1695年)五百羅漢寺が建立されたため、この渡しを利用する者も多くなり、「羅漢の渡し」や「五ツ目の渡し」と呼ばれ人々に親しまれてきた。
その後、明治12年(1879年)に木橋が架けられたが大正12年の大震災により落橋した。
震災復興により昭和3年本橋は鋼橋に架け替えられた。
戦災にも耐えた本橋は老朽化により、昭和50年再度架け替えられた。
親柱は震災復興記念として現在も残されている。
亀戸、大島地域の発展に大きな役割を果たしたこの橋は、昭和63年東京都著名橋に指定さた。
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伊藤左千夫の歌のパネルがあった。

竪川の野菊の宿は初芽すぎ二の芽摘むべく群れ生ひにけり
新聞『日本』(明治40年5月7日)に「勾玉日記」(4月29日)として掲載。
花のたよりもいつしか疎く、若葉の室の衣更、外のべも内べもおのづから、晴れ晴れしうなり來にけり、きのふまでも雪に籠るなど云ひこしける、諏訪人のたよりにさへ、温泉湧く信濃の山里も、夏は都におくれずとありて
柿の村人
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山國の春もくれぬれ、種おろす田なべのカリンさ芽暢びにけり
錦木の八十樹百樹の植籬あたり清らに小花散りつも
こたへ歌
竪川の野菊の宿は初芽過ぎ二の芽摘むべく群生ひにけり
青あらし楓はゆらぐしかすがに常盤木椎は猶眉芽(まよめ)なり
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「柿の村人」は島木赤彦の別号。
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