正岡子規


『水戸紀行』

 明治22年(1889年)4月3日、正岡子規は常磐会寄宿舎から友人と二人で学友菊池謙二郎を訪ねて水戸へ徒歩旅行をした。



 ことし明治22年の春10日許り學暇を得ければ常磐會寄宿舎内の友一人を催して水戸地方に旅行をなさんと相談調ひさらば思ひ立つ日が吉日善は急げ物は障碍なき方へと進み人は愉快なる方へと志す規則のものなれば明日を門出での日と定めんとまで運びをつけ草履朝飯抔(など)の支度をとゝのへしは4月2日の夜のことなりき

折しも路ばたの車夫聲をかけ

 車夫「旦那どうです 松戸まで歸りですがお安くやります

といふに二人顔を見合せしが

 野暮「オイ いくらでいく

といふとサアそれから談判が始まる、すると高いとか安いとかいふ内に車夫がまけるとくる、さらば乘らずばなるまいと折角端折りし裾をおろし再びもとの紳士となりすまし、さきの言葉もどこへやら 中川橋を渡り松戸のこなたにて車はガラガラギリギリドンととまる。車を下り江戸川を渡れば松戸驛なり それより一里餘にして小金驛に至る

江戸川


 まだ日は高ければ牛久までは行かんと思ひしに我も八里の道にくたびれて藤代の中程なる銚子屋へ一宿す。此驛には旅店二軒あるのみなりといへば其淋しさも思ひ見るべし。湯にはいり足をのばしたる心持よかりしが夜に入りては伸ばしたる足寒くて自らちゞまりぬ。むさくろしき膳のさまながら晝飯にくらべてはうまかりき。食終るや床をしかせてこれで寒さを忘れたれど枕の堅きには閉口せり。

小貝川


 川を渡れば取手とて今迄にては一番繁華なる町なり 處々に西洋風の家をも見受けたり このへんより少しづゝ足の疲れを覺ゆ 多駄八の足元を見るによろよろとしてたしかならず兎角おくれ勝なり 野中に1株の梅花眞盛りにてまだ散りも始めぬをこゝらあたりは春も遅かりけりと烟草を出して吸いながら彳む

 こゝを下りてまたいもを求め北に向て去りぬ。筑波へ行く道は左へ曲れと石の立ちたるを見過して筑波へは行かず草臥ながらも中貫、稻吉を經て感心にも石岡迄辿りつき萬屋に宿を定む。石岡は醤油の名處也。萬屋は石岡中の第一等の旅店也。さまて美しくはあらねどもてなしも厚き故藤代にくらぶれば數段上と覺えたり。足を伸ばしたりかゞめたりしながら枕の底へいたづら書なとす。

 蓋し上市は東京の山の手にて下市は下町の類なり 此谷にそふて左に行けば那珂川は山の下に帶の如く横はり蛇の如く曲折す それを出て新たに堀り割りし道を通り石階を登れば常盤木のおひしげれる中に一ッの廟あり 家康公を祭りしものにや こゝより路を轉じて水戸公園常盤(ママ)~社に至り左にいづれば數百坪の芝原平垣(ママ)にして毛氈の如し

 二階に上りて見れば仙波沼脚下に横たはり向ひ岸は岡打ちつゞきて樹などしげりあへり、すぐ目の下を見ればがけには梅の樹斜めにわだかまりて花いまだ散り盡さず 此がけと沼の間に細き道を取りたるは汽車の通ふ處也 此樓のけしきは山あり水あり奥如と曠如を兼ねて天然の絶景と人造の庭園と打ちつゞき常盤木、花さく木のうちまじりて何一ッかげたるものなし  余は未だ此の如く婉麗幽遠なる公園を見たることあらず 景勝は常に噂よりはあしきものなれどもこゝ許りは想像せしよりもはるかによかりき 好文亭と名づけしは梅を多く植ゑしためならん

好文亭


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