山口誓子ゆかりの地


「松 山」

昭和35年(1960年)11月28日、山口誓子は松山を訪れた。

 昭和三十五年の十一月二十九日、私は前日から松山に来ていた。この日は明月の書を沢山見た。良寛と寂厳(じゃくごん)の書を好む私は松山円光寺の僧、明月の書が見たかったのだ。明月の書には寂厳のようなメカニズムはない。うまく書けなくてもいい、筆の赴くままに、筆のあとからついて行こうというような書だ。懐素を模したと云うが、なるほど懐素だ。みな千船町の医師・笠置信氏の蔵である。

 明月の書とともに、久米神社の神官、三輪田米山の書もすこし見た。米山は王羲之を習ったと云う。

 子規は明月の書を「尋常をぬけ居候」と評した。

 私は、愚陀仏庵址を見に行った。漱石が寄寓していた二番町の、旧上野家だ。焼けて再建され、天平という天婦羅屋になっている。

 漱石がそう名づけた愚陀仏庵は上野家の離れで、漱石は下の座敷にいたが、子規が、日清戦争で身体を壊して帰り、この家に、舞い込んで来たから、下の座敷を子規に提供して、自分は二階に移った。

当時の愚陀仏庵


 しかし再建されたものは、別のものだ。私は二階に上って、北に松山城を見た。そしてこれだけが昔からあるものだと思った。

 子規の住んでいた中の川の家の址も見に行った。いま湊町四丁目。子規の歌碑が立っている。中の川をうしろにして、川沿いの家はみなおでん屋だ。昔、あった子規の家は士族屋敷で、玄関を入った左に三畳の勉強部屋があった。南側の窓の下に、机が一脚、本箱が三つばかり並んでいて、本箱には子規の筆写した本が詰っていた。貧乏士族の子である子規は、字が巧くて筆まめだったので、本を筆写することを苦にしなかったのだ。

 子規のこの屋敷の隣りで、虚子が生れた。子規の誕生した新玉町の家の址も見に行った。いま花園町一丁目、商店街で、そこからも北に松山城が見えた。

 子規の中の川の家が、末広町一丁目の正宗寺内に復元され、戦後再建された。それが子規堂だ。勉強部屋も附いている。

 正宗寺の玄関の前に子規の句碑がある。低い自然石。

   朝寒やたのもとひびく内玄関

 「頼もう」と内に声を掛けたのだ。句はこの寺で詠まれた。昭和二十八年建立。

 墓地の入口に子規の埋髪塔があって、子規の横顔が彫られている。郵便切手になったあの横顔だ。それを下村為山が描いた。明治三十七年の建立だからこれは古い。

 その帰途、城へ無かって市役所の前を通ったとき、広場に立っている碧梧桐の句碑を見た。

   さくら活けた花屑の中から一枝拾ふ

 青色の、大きな自然石だ。

 私は驚いた。昭和十二年に、はじめて松山へ来て、刑務所に案内されたとき、私はこの句碑をその構内で見たからである。そのとき私は、花屑の中からまだ活けられる一枝を拾い出した、というこの自由律俳句は、刑務所にいる人々の救いになったろうと思い、いい場処にいい句碑が立っている、と思ったのである。

 それが刑務所から出て、市役所の広場に立っている。驚くのが当然だ。

 もともとこの句碑は、昭和七年、時の松山刑務所長が教化のために建てたものだ。それが後の所長によって外へ出された。「花屑」の「屑」がいけないと云うのか。

 書は例の六朝書体だ。不折のもそうだが、碧梧桐のこの書体が本当に六朝書体なのか。私は久しくこのことを疑問にしているのだ。

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