山口誓子ゆかりの地


「九十九里浜行」

昭和43年(1968年)12月、山口誓子は犬吠埼から九十九里浜へ。

 前夜は犬吠崎のホテルに泊つてゐた。もがり笛がいつまでもひゆうひゆう鳴つてゐた。

   海を行く妙義生れの虎落(もがり)

といふ句が出来た。もがり笛が妙義山から、犬吠崎までやつて来たと思つたのだ。もがり笛は漁火のとびとびにともつてゐる海へ出て行つた。

 翌くる日、九十九里浜へ行つた。



 岬の道の海へ突き出たところに高浜虚子の句碑も立つてゐる。

   犬吠の今宵の朧待つとせん

 昭和十四年の作。碑は海に背を向け、逆光線で暗かつた。

 九十九里浜行へは百二十六号線で行つた。成東から左へ折れた本須賀といふ海岸に、伊藤左千夫の歌碑が立つてゐる。

   天地の四方の
      寄合を垣にせる
     九十九里の浜に
        玉拾ひ居り

 明治四十二年二月二十八日、左千夫がここに遊んで作つた連作の一首だ。

 斎藤茂吉は、この歌を「実に豊麗で、天地創造のむかし国々生れんとする時のくだりに身を置くやうな気持である」と批評した。

 私は、そこから、海岸沿ひに南下して、真亀納屋の高村光太郎の詩碑を見に行つた。

 砂浜のただ中にその碑が立つてゐた。その詩は「千鳥と遊ぶ智恵子」だ。

   人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
   砂にすわつて智恵子は遊ぶ

で始まつて、智恵子と千鳥が戯れる。

 最後は

   二丁も離れた防風林の夕日の中で
   松の花粉をあびながら私はいつまでも
   立ち尽す

で終つてゐる。私はその「二丁も離れた防風林」の中に詩碑が立つてゐたらいいのにと思ふのだ。碑は海に背をむけてゐるが、海に向いてゐる方がこの詩にふさわしい。

 智恵子は大正三年、光太郎と結婚してから病気勝ちで、病気になると福島県二本松の実家に帰つてゐた。昭和六年、智恵子に精神分裂の症状が現れたので、昭和九年に九十九里真亀納屋に転地させ、光太郎は毎週東京から見舞ひに来た。

 明治四十五年、女子大生だつた智恵子は犬吠岬へ写生旅行に来て光太郎と会つたことがある。又、九十九里には智恵子の親戚があつたりしたから、その海岸は二人にはゆかりある地だつたのだ。

 しかし、智恵子の病気は快方に向はず、東京に帰つて来た。そして昭和十三年に病院で死んだ。光太郎が昭和二十七年、十和田湖に記念像を建てることになつたとき、光太郎は智恵子の裸像を作らうと思ひ立つた。光太郎は八年間彫刻から離れてゐて、七十歳になつてゐた。そのブロンズの二人の裸婦像は翌年十和田湖の休屋御前浜に建てられた。

 私も湖畔のその裸婦像を見たことがある。裸婦はずんぐりしてゐた。上半身が長く、脚が短かかつた。私にはその裸婦像が智恵子だと思はれず、東北地方の農村の乙女を二人、田圃から連れて来て立たしたやうに思はれた。



 それから成東の殿台まで引つ返した。

 伊藤左千夫の生家が残つてゐて、門の左手に歌碑が立つてゐる。

   牛飼がうたよむ時に世の中のあたらしき歌おほいに起る

 この歌を左千夫は師の正岡子規に示したと云ふ。

 左千夫は東京の本所茅場町で搾乳を業としてゐたので、みづからを「牛飼」と云つた。専門の歌人ならぬ牛飼が、歌を詠む時世に、新しい歌が大いに起つて来たと云ふのである。

 土屋文明は「新しき歌大いに起る」などといふのは寧ろ正岡子規が歌はるべきものだ、と批評した。

 私はそのさかんなる歌の碑を見て、生家の裡に入つた。土間は広くて堅かつた。わたしはそれをしつかり踏んで立つた。手前の部屋から中の部屋が見え、奥の部屋まで見えた。奥の部屋は勉強の部屋だつたと云ふ。

山口誓子ゆかりの地に戻る