種田山頭火の句碑
霧島は霧にかくれて赤とんぼ
高崎新田駅前団地(花筏団地)の完成にあたり、この記念として高崎町を訪れ、陣屋に宿泊した漂泊の俳人山頭火の歌碑(ママ)をここに建立する。 |
昭和5年(1930年)9月21日、種田山頭火は高原駅から高崎新田駅に着いた。 |
九月廿一日 曇、雨、彼岸入、高崎新田、陳屋(四〇・上) 九時の汽車で高原へ、三時間行乞、そして一時の汽車で高崎新田へ、また三時間行乞。 高原も新田も荒涼たる村の町である、大きな家は倒れて住む人なく、小さい家は荒れゆくまゝにして人間がうようよしてゐる、省みて自分自身を恥ぢ且つ恐れる。 霧島は霧にかくれて赤とんぼ 病人連れて秋雨のプラツトホーム 霧島は霧にかくれて見えない、たゞ高原らしい風が法衣を吹いて通る、あちらを見てもこちらを見ても知らない顔ばかり、やつぱりさびしいやすらかさ、やすらかなさびしさに間違いない。 此宿は満員だといふのを無理に泊めて貰つた、よかつた、おばあさんの心づくしがうれしい。 |
霧島は霧にかくれて赤とんぼ ずゐぶん古めかしい句ですね、私はだんだんかういふ古典的な伝統的な世界に沈潜してゆきます、マルキスト連中とは対蹠的になつてゆきます、これでいい、それがホントウだ、それより外ないと思ひます、さうではありませんか、
昭和5年9月21日、木村緑平宛書簡 |