種田山頭火の句碑
墓がならんでそこまで波がおしよせて
墓がならんで |
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そこまで |
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波がおしよせて |
俳句とお酒を生涯の楽しみとして、いた山頭火は鹿児島から宮崎を経て昭和5年(1930年)10月27日、美々津に入りました。 当時石並にあった旅館池部屋に宿をとり、別府の共同浴場を利用しております。 翌日は美々津町筋を行乞し平岩を経て富高に向かい、それぞれの地で俳句を詠んでいます。 当時この地は墓地で、すぐ近くまで波がおしよせており、その情景を詠んだものと思われます。 |
今日の行乞相は、現在の私としては、まあ満点に近い方だつた、我といふものがなかつたとはいへないが、ないに近い方だつた、そして泊つて食べる(その上に酒一本代)だけは頂戴することが出来た。 ・墓がならんでそこまで波がおしよせて いざり火ちらちらして旅はやるせない |
神武天皇は、国の最大である大和国(奈良県地方)に都を移されるため、この美々津の港をお舟出されたのであります。ここより北の方へ1.2Kmの耳川口が、その港であります。はるか沖に向かって左の小島と右の燈台のある島との間をお舟出されたので、お舟出の瀬戸と申します。このお舟出の瀬戸に永久に輝くあの燈台は「神のみあかし」と申しまして、昭和9年に神武天皇東遷2600年祭に全国協議会により建立されました。 |
昭和14年(1939年)11月、西条八十は皇紀2600年を前に神武天皇ゆかりの宮崎神宮・高千穂峡・美々津港等を訪れている。 |