種田山頭火の句碑

逢へばしみじみ黙つてゐてもかつこうよ

抱壷逝けるかよ水仙のしほるるごとく

indexにもどる

   はてしなくさみだるゝ空がみちのく

これから仙台の抱壺君を見舞うて、それから帰国します、もうとても旅をつゞけることは出来ません。これは私のSOSです。

おたよりを待ちます。

昭和11年6月23日、木村緑平宛書簡

仙台市青葉区上杉に光禅寺という寺がある。

光禅寺の門前に種田山頭火の句碑があった。


逢へばしみじみ黙つてゐてもかつこうよ

抱壷逝けるかよ水仙のしほるるごとく

昭和11年(1936年)6月23日、山頭火は鶴岡から仙台を訪れた。

抱壺君にだけは是非逢ひたい。十時半の汽車に乗る。青い山、青い野、私は慰まない、あゝこの憂欝、この苦脳。くづれゆく身心。六時すぎて仙台着、抱壺君としんみり話す、予期したよりも元気がよいのがうれしい、どちらが果して病人か!歩々生死、刻々去来。

昭和11年(1936年)6月23日『旅日記』の一節より   岡島良平書

平成元年(1989年)6月23日、建立。

俳僧種田山頭火仙台の自由俳人海藤抱壺を病床に訪ねしときの一句と後年抱壺の霊前に供へし句の中の一句を併録し山頭火羇泊ゆかりの地に句碑を建立し五十回忌追善の標とする

昭和15年(1940年)9月18日、海藤抱壺没。

未明起床、しゆくぜんとして省悟するところがあつた。

郵便が来て――抱壺の訃を通知されて、驚いたことは驚いたけれど、それは予期しないではない悲報であつた、あゝ抱壺君、君は水仙のやうな人であつた、友としてはあまりに若く遠く隔てゝはゐたが、いつぞや君を訪ねていつたときのさまざまのおもひでは尽きない――こみあげる悲しさ淋しさが一句また一句、水のあふれるやうに句となつた、――抱壺君、君はよく昨日まで生きてくれた、闘病十数年、その苦痛、その努力、そしてその精進、とてもとても私のやうな凡夫どもの出来ることではない、私は改めて君に向つて頭をさげる、――あゝ逝くものは逝く、抱壺もついに逝つてしまつた、あゝ、――私はひとりしづかに焼香し読経した。――

『一草庵日記』(9月22日)

昭和15年(1940年)10月11日、種田山頭火は一草庵で死去。享年59歳。

種田山頭火の句碑に戻る