2005年埼 玉

平林寺〜業平塚〜
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国道254号(川越街道)新座警察署交差点を南に入ると、平林寺がある。


平林寺


金鳳山平林寺は臨済宗妙心寺派の寺院。

三(山)門


石川丈山筆の「凌霄閣」の額を掲げている。

 安永10年(1781年)2月4日、平橋庵敲氷は平林寺を訪ねた。

平林寺を尋るに、木立深くわけ入て東西をしらす、かけひの響き誦経の声なして、外におとなふものなし

実相の風和らかに松かしワ
   氷


仏 殿


 寛政6年(1794年)9月7日、鈴木道彦巣兆、宗讃を伴って江戸を立ち白子に泊まる。翌8日、平林寺を通って毛呂の碩布を訪ねた。

 水清らかに流るゝに、咲かせば山吹よ、藤も、杜若(かきつばた)には廣すぎたり。

   ひたひたと秋葉報ず平林寺

『そゞろごと』

 文化5年(1808年)5月25日、小林一茶は草津に向かう途中で平林寺を通る。

 野火留の里は昔男の我もこもれりとありし所と聞くに、そのあたりに思はれてなつかしく、此辺西瓜を作る。

   瓜むいて芒の風に吹かれけり

 往還より南に平林寺といふ大寺有。


鐘 楼


 文化14年(1817年)8月18日、国学者高田与清は平林寺に詣でている。

十八日、生々・直躬うちつれて、金鳳山平林寺にまうづ。塔頭聯芳軒のあるじ道阿老師は、くちおもしろき歌人なり。こゝに明の獨立禪師の碑文(いしぶみ)あり。享保三年四月に、その門人玄泰がえらびしなり。平林寺は埼玉郡岩槻の平林寺村にありけるを、元禄といふとしのころ、こゝに引うつされしとぞ。伽藍堂塔むねをならべて、またなき法(のり)の庭のさまいとたふとし。


平林寺境内林の中に野火止塚(九十九塚)があった。


野火止塚(九十九塚)

 この野火止塚は和名抄に見る火田狩猟による野火を見張ったものか、焼畑耕法による火勢を見張ったものか、定かではないが、野火の見張台であったとする説が有力である。それはこの種の塚が古くからこの平野の各所にあって、その名残りを留めていた事でも判る。

業平塚もあった。


業平塚在原業平が京より東国へ東くだりの折、武蔵野が原に駒を止めて休んだという伝えがある。)

 江戸名所図会によると、野火止塚(九十九塚)と同じく、古へ野火を遮り止むるために築きたりしものなるべきを後世好事の人、伊勢物語によりて名付けしなるべし。塚上石碑を建てて和歌の一首をちりばめたり。その詠にいはく「むさし野にかたり伝へし在原のその名を忍ぶ露の小塚」とあるが、この歌碑は今はない。

 むかし、男ありけり。人のむすめを盗みて、武蔵野へ率てゆくほどに、盗人なりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらの中に置きて、逃げにけり。道来る人、この野は盗人あなりとて、火つけむとす。女、わびて、

   武蔵野は今日はな焼きそ若草の

      つまもこもれりわれもこもれり

とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率ていにけり。

『伊勢物語』(第十二段)

『古今和歌集』には「かすが野は」とある。

   武藏野はけふはなやきそ若草のつまもこもれり我もこもれり

此歌も伊勢物語に、男をんなをぬすみて武藏野をゆくに、この野は盗人こもりたりとて野をやかんとしける時よめりとかけり。


 文明18年(1486年)、道興准后は野火止塚を見ている。

此のあたりに野火どめのつかといふ塚あり。けふはなやきそと詠ぜしによりて、烽火忽にやとまりけるとなむ。それより此の塚をのびどめと名づけ侍るよし、国の人申し侍りければ、

   わか草の妻も籠らぬ冬されにやかてもかるゝのひとめの塚


佐久間柳居は野火留で句を詠んでいる。

   野火留にて

吸殻を追ふて踏消す枯野哉


 元文5年(1740年)、横井也有は野火留を訪ねて、「業平塚」を見ている。

 又の日、野火留といふ所を尋侍り。こゝ『伊勢物語』に、けふはなやきそとよみし跡なれ、里の名もかくよび侍とか。業平塚とて、さびしきしるし今も残れり。うたのこゝろをしらば、枯草に吸がらなすてそとたはむれて、

   こもるかと問へば枯野のきりぎりす

『武蔵野紀行』

加舎白雄は野火止で句を詠んでいる。

   野火留にて

妻も子も榾火に籠る野守かな


 文化14年(1817年)8月18日、高田与清は「野火留の塚」を見ている。

あさ篠原の細道をおくふかくわけいれば、野火留の塚あり。廻國雜記に見えて、ふるくよりかたりつぎたる也。九十九塚・業平塚などいふは伊勢物語によりてしひごとまうけしなるべけれど、これもむげにちかき世のしわざにもあるまじくや。


河越街道の立場にして、膝折の駅より一里あまり西の方にあり。大和田の駅へも一里ばかりありて、間(あひ)の宿なり。

『伊勢物語』

昔男ありけり。ひとのむすめを盗みて、むさし野へゐてゆく程に、盗人なりければ、国の守にからめられにけり。をんなをば、草むらの中にかくしおきて、にげにけり。道ゆく人、この野は盗人あなりとて、火つけむとすれば、をんなわびて、

武蔵野はけふはなやきそ若草の妻もこもれり吾もこもれり

とよみけるを聞きて、をんなをばとりて、ともにゐていにけり。

『回国雑記』

此のあたりに野火どめの塚と云ふ塚あり。けふはなやきそと詠ぜしによりて、烽火たちまちにやけとまりけるとなむ。それよりこの塚をのびどめと名づけはべるよし、国の人まうし侍りければ、
道興准后
若草のつまもこもらぬ冬されにやがてもかるゝ野火どめの塚

これを過ぎて、ひざをりといへる里に市はべり。下略。


正岡子規、高濱虚子も折々に平林寺で吟行会を催していたそうだ。

 昭和5年(1930年)11月9日、高濱虚子は野火止で武蔵野探勝会。星野立子富安風生等同行。

 武蔵野は今、秋の景色から冬の景色へと装ひをかへようとしてゐるのである。さういふ時分の武蔵野の風物を目当に、第四回武蔵野探勝吟行が催ほされた。大体、東上線膝折駅から一里許りを隔てた野火止といふ邑の名刹平林寺を中心とするの計画であつた。

 日曜。朝の程小雨。午前十時、池袋駅に集合するもの、先生をはじめいつもの顔触れ役二十名。

 膝折から自動車を走らせる。

『武蔵野探勝』(雑木林など)

「膝折駅」は、現在の朝霞駅。

つく杖の先にさゝりし朴落葉

      十一月九日、武蔵野探勝會。埼玉縣野火止、平林寺。

『五百句時代』

 少し日がさしはじめた。冬の蜂が草の中でひくゝ音を
立てゝゐる。

  一列に芒や萱を岐け岐けて

 平林寺を出て、先頭につゞいてそれぞれ歩きはじめる。

  右銀杏左紅葉の落葉道


街道に大根洗ふ大盥

『草の花』

昭和38年(1963年)9月8日、星野立子は玉藻探勝会で平林寺へ。

 九月八日 玉藻探勝会 平林寺

 九時鎌倉発 池袋よりバス

禅寺の静けさ秋の風の中

道標べあれば従ひ秋の晴

この道に思ひ出ありし法師蝉

野火止の秋の井水のほとばしり


昭和43年(1968年)12月18日、水原秋桜子は平林寺に遊ぶ。

   平林寺 五句

大霜の茅葺なれば堂きびし

菜園はくさぐさ青し枯芭蕉

下の菜や矮鶏(ちゃぼ)をかこめる四十雀

竹外の一枝は霜の山椿

太き蔓枯れて垣なすおのづから

『殉教』

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