亡父蘭陵は若年より書画風流の道をたのしミ、あたりの童子を集め其教ためなりしか、いつとなく例ならす、終には久斜の葉のつゆと消ゆるハ、誠に乳房顔ふく赤子の如く思ふ折から、門弟子訪行来と居士のふつかし置れし自画の像をいしに彫て、永く後世に残さむ事残すらむ。その志の深きを辞するにもあらされは、倶に修造すものとはなりぬ。
于時天保九戌年八月長ミや如構しるす |
文安4年(1447年)3月、祐真和尚の開山と伝えられる。 文明6年(1474年)銘の鰐口は、岩槻の渋江鋳物師によって鋳造されたもの。 元文3年(1738年)3月22日、山崎北華は江戸を立ち『奥の細道』の足跡をたどり、松島を訪れる。23日、大光寺の「弁慶水鏡の池」を見た。 |
明れば岩附の城下。長宮といふに。知る人ありて尋ね行く。主案内して。淨國寺。久尹豆。慈恩寺。大光寺。などいふを見歩く。大光寺に。昔義經。奥州下向の時。辨慶が水鏡見し池が有り。其傍に柳の大木が有り。辨慶此池に姿をうつし見。楊枝を爰にさしたるが。根のつきて如此といふ。斯る事は。國々に云傳へたる事多けれども。させる證も無き事のみ多し。更に眞とも思ひなさず。 |