2017年大 阪

萬福寺〜新撰組〜
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大阪市天王寺区下寺町の松屋町筋沿いに萬福寺という寺がある。

萬福寺山門


山門の前に「新選組 大坂旅宿跡」の碑があった。


 新選組は幕末期、近藤勇に統括された、京都を本拠とする浪士集団です。

 幕末の京都は、江戸にかわって久しぶりに日本の政治の中心地となっていました。

 それは、京都にあった一橋慶喜(禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮、のちの15代将軍)・松平容保(会津候、京都守護職)・松平定敬(桑名候、京都所司代)が、孝明天皇に強く支持されて権力を握ったからです。これを「一・会・桑 権力」とよびます。

 その松平容保に新選組は所属し、「一・会・桑」の政敵、長州毛利家の志士たちと戦いました。元治元年(1864年)、池田屋事件禁門の変などで大きな軍功をたてたことは、よく知られるところです。新選組は「一・会・桑」を助けた最強軍事集団といえます。

 近藤勇らは、京都に本拠をおくとはいえ、もともと畿内に滞在する将軍徳川家茂の護衛と、大坂を含む長い海岸線(摂海)の防衛に携わるため江戸より西上してきた者なので、当初より将軍の大坂城滞在のときなどは、たびたび大坂に出張していました。

 その際に使用された旅宿のひとつが、ここ萬福寺です。

 たとえば幹部島田魁の手記によれば、慶応元年(1865年)5月、将軍家茂の3度目の西上にあわせて、新選組は大坂市中取締を命じられています。

 その時期の大坂町奉行所の発した文書によれば、「壬生組」が萬福寺を宿所にしています。

 すでに同年3月、新選組の本拠は、当初の葛野郡壬生村から西本願寺境内へ移っていましたが、この「壬生組」こそ新選組のことと思われます。

 実際、同年7月1日付、幹部井上源三郎から兄井上松五郎に宛てられた書翰によれば、前月中に松五郎が萬福寺に源三郎を訪ねています。たまたまそのとき、源三郎は京都に戻っていて会えませんでしたが、この書翰からも大坂滞在中の新選組の旅宿のひとつが萬福寺だったとわかります。萬福寺の現在の建物のうち、庫裏や山門などは幕末期には存在しており、往時をしのぶことができます。

 以上のことから、当所を大阪市内における新選組史蹟のひとつとしてここに建碑し、顕彰いたします。

歴史地理史学者 中村武生

境内に芭蕉の句碑があった。


尊かるなみだや染てちる紅葉

出典は『笈日記』

尊かるなみだや染てちる紅葉   はせを

 松尾芭蕉(1644年−1694年)が詠んだ句です。

 この句は、元禄4年(1691年)に月沢(現在の滋賀県彦根市)の明照寺で旧知の和尚李由と唱和した際に芭蕉が詠んだものといわれています。

 「寺の荘厳さに感動して流す涙に真っ赤に染められて紅葉が散っていく」という意味で、明照寺の雅趣と李由のもてなしぶりを称えています。

 なぜ彦根の句を記した碑が当寺の境内にあるのかといえば、東隣の生玉寺町に西照庵という紅葉の名所の料亭があったからといわれています。

 1824年刊の『花のしおり』には「大坂紅葉名所 箕面 西照庵」と出ているほどで、この地域一帯が箕面と肩を並べるほどの紅葉の名所だったことがうかがえ、そのつながりでこの句碑が建てられたものと思われます。

 建碑者については定かではありませんが、蕉風の俳人井眉(1837年に78歳で没)の追善のために、門人の井資が師匠の七回忌であり芭蕉の百五十回忌にもあたる1843年に合わせて建てたと考えられています。

 ちなみに、本堂前に「白露やつゆにむかへばつゆもなし   天保丁酉 初冬建立 七十八里 井眉」との句碑がありますが、こちらは井資が同じく追善の目的で井眉の没年に建てたものです。

萬福寺本堂


単立の寺院である。

井眉の句碑


白露やつゆにむかへばつゆもなし

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