2015年大 分

柞原八幡宮〜火王宮〜
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大分市浜の市に柞原(ゆすはら)八幡宮がある。


柞原八幡宮


柞原八幡宮の仮宮(お旅所)である。

柞原八幡宮の左手に火王宮がある。


明治4年(1871年)、火王神社(宮)を村社、興玉神社。

昭和32年(1957年)、興玉神社を火王宮に改める。

当社の草創について

豊府雑志は由原八幡宮影向ノ後、宮師金亀和尚、当社放生会ノ地アラン事ヲ求ム。爾後、承和四年八月十四日ノ夜、当浦ニ火石海中ヨリ流出シテ、炎光ヲ放ツ。里民皆恐レ、怪ム。和尚下山シテ是ヲ拝シ、此地ヲ以テ、放生会ノ斎場タラン事ヲ祀誓シ玉フ。其夜ノ夢ニ、一人ノ老翁来テ告テ曰、吾ハ武内大臣也、此地ニ於テ、毎年放生会ヲ執行スベシ。又、火石ヲ神体トシテ此地ニ祀リ奉ルベシト。是即チ由布同体異所ノ神霊ニシテ、八幡菩薩ノ権化タルヲ以テ、火王大権現ト号スト云云。

玉垣の中に「桜塚」があった。


木の母とに志る裳な満寸毛佐久ら哉

『ひさご』(珍碩編)冒頭の句である。

元禄3年(1690年)3月2日、伊賀上野風麦亭の歌仙の発句。

明治19年(1886年)、清風舎乙人建立。

乙人は三塚清三、京町で代々呉服屋を営んできた資産家だそうだ。

 明治17年(1884年)、カンタン港(大分港)完成。三塚清三は築港会所の頭取。

 明治21年(1888年)夏、乙人はカンタン港完成を祝って芭蕉の句碑を建立。

春も漸けしきととのふ月とむめ

平成19年(2007年)春、水江太一は芭蕉の句碑を柞原八幡宮に奉納。

「菫塚」もあった。


山路来てなにやらゆかしすみ禮艸

出典は『野ざらし紀行』

 貞享2年(1685年)、京都から大津に至る山路を越えて行く時に詠んだ句とされる。

明治22年(1889年)冬、三塚滿之建立。

碑陰に乙人の句が刻まれている。

此みちや桜うゆるを春仕事

蓼太の句碑もあった。


月を出て月に野やまの入夜かな

大島蓼太は雪中庵三世。

天明7年(1787年)9月7日、70歳で没。

 碑陰に「万歳千秋朽さるものは月か句か又石歟よつて我しるよしにとらむ 太乙楼不騫」と記してあるそうだ。

天明7年(1787年)、不騫建立。

 不騫は豊後府内藩六代主松平近儔(ちかとも)。雪中庵三世蓼太の門人。太乙楼。

天保11年(1840年)2月16日、死去。享年87。

墓所は小石川の伝通院

不騫の句碑もあったようだが、よく読めない。

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