昔の温泉

道後温泉「道後温泉本館」
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松山といえば、道後温泉。


 寛政5年(1793年)、森々庵松後は筑紫に向かう途上、道後の温泉に入湯しているようだ。

   道後の温泉は神代より始まりて古き文にも
   見えぬれは

春なれや湯桁にあまる人の數

『心つくし』

 寛政7年(1795年)2月、一茶は道後温泉を訪れている。

   道後温泉の辺りにて

寝ころんで蝶泊らせる外湯哉


道後温泉本館


写真を撮る観光客が多い。

 明治27年(1894年)、改築した木造3階建て

 明治28年(1895年)、夏目漱石は愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に赴任する。

おれはここへ來てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めてゐる。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。せつかく來た者だから毎日這入つてやらうといふ氣で、晩飯前に運動かたがた出掛る。

『坊つちやん』

 明治32年(1899年)、又新殿(ゆうしんでん)建築。

 明治43年(1910年)8月28日、河東碧梧桐は高浜から松山に出て道後温泉に入った。

用があって松山に出た。道後の湯に入って帰った。すでに1ヵ月を過ぎた今日、道後入湯は僅に三回に過ぎぬ。道後の湯が町有であるため、湯番その他の者が横着だとか、浴衣が垢で汚れておるとかいう攻撃もあり、また湯治宿が不親切で且つ暴利を貪るというような不平もある。我等の目睹する事実もまたそうのようでもあるが、町有であるから町債を起して日本に比類のない建築も出来たのであって、これが一私人の有であるなら、今日までの整理も出来ていないのである。穴勝に町有を攻撃する所以はない。


「神の湯階下」に入る。料金は400円。

内部は撮影禁止。

お風呂は昔の銭湯と同じ。

石鹸やシャンプーはないので、旅の者は浴槽に浸かっているしかない。

平成6年(1994年)12月、「道後温泉本館」は国の重要文化財に指定された。

「坊つちやんカラクリ時計」の脇に柳原極堂の句碑があった。



春風やふね伊豫に寄りて道後の湯

昭和15年(1940年)2月15日、建立。

 明治30年(1897年)4月3日、松山の俳句結社松風会例会の席題吟「名所詠みこみ」の句です。

 「ふね伊予によりて」という中7の字余りが、いかにも伊予の松山らしい、ゆったりとした風土の味を出しています。

 今もつづく俳誌『ホトトギス』は、明治30年松山で極堂が創刊しました。彼は終世子規の顕彰に努め、初の愛媛県民賞を受け、また松山市名誉市民の第1号となりました。

俳句の里 道後コース16番

森盲天外の句碑


伊予とまうす国あたたかにいで湯わく

森盲天外

1864〜1934年
元治元年〜昭和9年

 森盲天外は余土村の生まれ、本名は恒太郎といい、盲目の身で模範村の名の高い余土村長として全国にその名を知られます。後に愛媛県会議員、道後湯之町町長も務めました。若くして正岡子規に師事して「天外」の号を受け、明治28年両眼失明後は自ら盲天外と号します。

 明治24年、月刊俳誌「はせを影」を発刊、また青年教化、農村教化にも努めました。なお、著書に『一粒未』(明治41年刊)があります。

俳句の里 松山

 大正元年(1912年)11月12日、志賀直哉は道後温泉へ。

 食事が待ち遠。二時に近かゝつた。湯へ行く。靈の湯の一等。二階で菓子などを出す。湯は思つたよりキタナイ。「湯の綿ぢやなもし」と後でいはれたがあてに」ならぬ。

[暗夜行路草稿4]

 大正10年(1921年)3月20日、斎藤茂吉は道後温泉に入浴、1泊している。

年ふりし道後のいでゆわが浴(あ)めばまさごの中ゆ湧きくるらしも


 昭和6年(1931年)11月2日、与謝野寛・晶子夫妻は道後温泉に泊まっている。

夕明り道後の湯場にかかるなり松山の城月のここちに

「緑階春雨」

 昭和14年(1939年)11月21日、種田山頭火は道後温泉に入浴。

人のなさけにほごれて旅のつかれが一時に出た、ほろ酔きげんで道後温泉にひたる、理髪したので一層のうのうする、緑平老のおせったいで、坊ちゃんというおでんやで高等学校の学生さんを相手に酔いつぶれた! それでも帰ることは帰って来た!

『四国遍路日記』

同年12月、山頭火は松山の「一草庵」に住む。

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