文治3年(1187年)、源義経は奥州下向の途次、能生を通り村田家に泊まると伝えられる。同行の常陸坊海尊追銘の「汐路の鐘」が神社に伝わる。 |
明応6年(1497年)、白山神社に火災があり、諸堂、社殿等を焼くと伝えられている。 明応8年(1499年)、火災により焼亡した「汐路の鐘」の残銅で新しく鐘を鋳造したという。 |
むかしより能生にふしきの名鐘有。これを汐路の鐘といへり。いつの代より出来たる事をしらす。鐘の銘ありしかと幾代の汐風に吹くされて見へさりしを、常陸坊の追銘とかや。此鐘汐の満来らんとて、人さはらすして響こと一里四面。さる故に此浦は海士の児まても自然と汐の満干を知り侍りしに、明応の頃焼亡せり。されともその残銅をもつて今の鐘能登国中居浦鋳物師某鋳返しけるとそ。猶鐘につきたる古歌なとありしといへとも、誰ありてこれを知る人なし。
芭蕉
曙や霧にうつまくかねの聲 |
元禄2年(1689年)7月11日(陽暦8月25日)、芭蕉は高田から約40キロを歩いて夜遅く能生に着き、「玉や五郎兵衛」方に泊まった。翌12日能生を立っている。「汐路の鐘」は誤伝とされる。 |
○十一日 快晴。暑甚シ。巳ノ下尅、高田ヲ立。五智・居多ヲ拝。名立ハ状不レ届。直ニ能生ヘ通、暮テ着。玉や五良兵衛方ニ宿。月晴。 ○十二日 天気快晴。能生ヲ立。
『随行日記』 |
相馬御風は「玉や五良兵衛方」を「私の祖母の生家であった。」と書いている。 |
能生町には昔から玉やと名乗った家は一軒しかなかった。しかも、それは私の祖母の生家であった。玉屋は昔仕出し屋を営んだことがあると伝えられ、現に当地有数の料亭であった。代々石井姓を名乗り、今右衛門を通称としてきたが、寺の過去帳によって五良兵衛と名乗った世代のあることをたしかめた。芭蕉は確かに私の祖母の生家に泊まったのである。
『相馬御風随想』 |
明治元年(1868年)頃、廃仏毀釈により「汐路の鐘」破損されると伝えられる。 明治16年(1883年)、「汐路の鐘碑」売却。 大正15年(1926年)3月、高田の山岸愛氏「汐路の鐘碑」を寄進。白山神社境内に戻る。 |
この石はやく我家にて氏より故ありて買ひおきしを、能生の村人の御社に鐘のなほ残れるをこれいかで奉りてよと、いまるるとこはるれば、古きものうせしめじとてつとめし、先人の心にもかなはむと謹みて納奉る 大正十五年三月 山岸 愛 |
天保14年(1843年)、芭蕉百五十回忌で田川鳳郎は二条家に請願し、芭蕉に「花本大明神」の号が贈られた。 嘉永3年(1850年)、岡本五右衛門憲孝(俳号・姫山)・憲明父子が南梨平の才蔵山に建立。揮毫は田川鳳朗。 平成3年(1991年)4月、芭蕉・奥の細道行脚300年を記念し、現在地に移転。 |